日中戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 09:02 UTC 版)
詳細は「国民革命軍」を参照 当時中華民国の指導者であった、国民党主席の蔣介石は反共の立場をとっていたが、盧溝橋事件・第二次上海事変により国民革命軍は日本軍と戦闘状態に入る(抗日戦争、日中戦争、当時の日本側呼称:支那事変)。 国民革命軍は中独合作により1927年からドイツ陸軍から軍事顧問団を受け入れて軍備の近代化を図っていた。これは1938年頃まで存続した。上海の防衛陣地ゼークト・ラインは有名である。大日本帝国陸軍に比べ装備・士気ともに劣悪な状態であったため、たびたび日本陸軍に敗北、首都南京も遷都せざるを得なかった、という見方がある。その一方、士気は旺盛で、装備も各国の援助で日本より優れていたから、それは間違いである、という見方もある(実際に日本からドイツに対し、軍事援助をやめるよう申し入れもあった)。当時日本では中華民国軍を国民政府軍(国府軍)、あるいは国民党軍と呼んだ。ただし1940年に中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)が発足するとこれと区別するために蔣介石の指導する抗日の国民革命軍を「重慶」「重慶軍」と呼ぶことも多くなり、当時の日本の家庭で貼られていた防空ポスターなどでその呼称を見ることが可能である。 しかしアメリカからの義勇軍(フライングタイガース)の支援や、中国共産党の国民革命軍第八路軍(後の人民解放軍)のゲリラ戦や、援蔣ルート経由で持ち込まれる連合国軍の支援物資により戦線を膠着状態に持ち込むことに成功する。このため結局日本陸軍は終戦まで国民革命軍に決定的な打撃を与えることはできなかった。
※この「日中戦争期」の解説は、「中華民国国軍」の解説の一部です。
「日中戦争期」を含む「中華民国国軍」の記事については、「中華民国国軍」の概要を参照ください。
日中戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 22:45 UTC 版)
1934年、ハルビン工業大学を首席で卒業した後は、人材の流出を制限していた満州国から商人に扮して脱出、母親と共に弁護士をしている父親を頼り天津に移り、その後江蘇省連雲港の発電所建設に参加している。そして自ら発表した送電ネットワークに関する論文(「配電網新算法」)が注目を集め南京国民政府資源委員会に招聘され湘潭湘江発電所の準備建設に携わった。 1937年に日中戦争が勃発、孫運璿は戦時臨時発電所の設置に従事し、その後政府の指示により、自力で輸送部隊を結成し、湘江発電所のタービンを3カ月かけて徒歩で陝西から重慶に移設している。更に政府命令により青海省に赴き、省内発の発電所を建設し自ら所長に就任した。その後発電所建設と移設の功績が認められ、孫運璿は政府から米国テネシー州のダム管理局への視察出張を命じられた。その後1945年に帰国している。
※この「日中戦争期」の解説は、「孫運璿」の解説の一部です。
「日中戦争期」を含む「孫運璿」の記事については、「孫運璿」の概要を参照ください。
日中戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 06:24 UTC 版)
日中戦争(支那事変)前に上海に設立されたプロフィンテルンのアジア太平洋支部である太平洋労働組合書記局書記のイレール・ヌーランが逮捕されるヌーラン事件が起き、中国国民党により向忠発が銃殺されて共産党幹部の逮捕が続くと、李立三コースを批判していたコミンテルン極東局を中心とするパーベル・ミフ派の勢力が強くなった。共産党軍は国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年に瑞金の中央根拠地を放棄して逃避行を始めた(後に長征と称される)。その過程の1935年に開催された遵義会議において毛沢東の指導権が確立したと言われる。逃避行は奥地でソ連に近い陝西省延安に拠点を構えることで終わった。 1933年5月、ソ連のトロツキストと繋がりを持つとされる元ドイツ参謀のハンス・フォン・ゼークトが中華民国の軍事顧問となった。1934年12月、日本人を中心に運営されていた満州国は、元白軍司令官のグリゴリー・セミョーノフの参加する反ソ組織の白系露人事務局を設立し、1935年3月にソ連より中東鉄道およびその付属地を買収した (北満鉄道讓渡協定)。1935年5月2日、ゼークトの提案に基づき中華民国秘密警察の藍衣社が親日要人へのテロ事件を起こしたため日本は抗議し、1935年6月27日に日本と中華民国は梅津・何応欽協定を結び、その協定の中でソ連の偵察所であった張家口の徳華洋行の妨害工作を企てた。それらに対し、ソ連は、1935年7月から8月にかけてモスクワで第7回コミンテルン世界大会を行い、コミンテルンは日本やドイツ等を共産化の主な攻撃目標に定めた。中国共産党代表団(ミフ派)は国共合作を呼びかける八・一宣言を行い、1936年の西安事件(西安事変)・1937年の盧溝橋事件・中ソ不可侵条約を経て、国民党とのいわゆる第二次国共合作を成立させた。日中戦争の際は八路軍などを編成して、華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との正面衝突は避けて力を温存させた。また蔣介石を通して、ソ連との不可侵条約締結などで反共から容共化に変えさせた。 ソ連において1934年から続く内務人民委員部により、イギリス・ドイツ・日本と関係を結んだ右翼=トロツキスト・ブロック、資本主義の復活を企む右翼の社会革命党(エス・エル党)および革命的祖国敗北主義により再共産主義革命を企むトロツキストが組んだものとされた人民がソ連共産党書記長ヨシフ・スターリンによる恐怖政治で大粛清されるなか、太平洋労働組合書記局はウラジオストクでプロフィンテルンの巻き返しを図るが、1937年にプロフィンテルンが解散となる。1936年、パーベル・ミフは、『中國共産黨 英勇奮鬪的十五年』を出版するが、1938年7月、КРТОへ参加したとしてソ連の内務人民委員部に処刑される。1940年8月にはトロツキーも暗殺された。 1940年10月から始まるナチ党とアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツのモスクワ侵攻に対し、アメリカの民主党フランクリン・ルーズベルト政権はソ連の支援を始めた。更に、アメリカ政府は独ソ戦におけるソ連軍への支援の際に、ソ連政府に対して「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」と主張していたほか、1941年7月20日にアメリカ政府による支援が内戦に使用されることは許容できないとして、中国国民党に中国共産党との和平を促す声明を発表した。1942年より、毛沢東は整風運動を行い、ミフ派を中心とするコミンテルンの影響を排除した。戦時下の1943年、コミンテルンが解散となる。 1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。
※この「日中戦争期」の解説は、「中国共産党」の解説の一部です。
「日中戦争期」を含む「中国共産党」の記事については、「中国共産党」の概要を参照ください。
日中戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 09:56 UTC 版)
当時、重慶国民政府(国民党)や汪兆銘政権は、いずれもこの共産党勢力(人民解放軍)を上海に呼び戻そうというメッセージが秘められると疑った。のち日本語でヒットし(1940年以降)、日本人に愛唱されたことで“亡国の歌” であるとも中国側から見られるようになった。本作(および他にも中国語歌謡曲のいくつかは)中国人の抗戦意識の減殺を目的として日本軍が意図的に流行させたものと一部から認識され、「何日君再來」等を排斥しようとする動きがあったことが指摘されている[要出典]。 共産党勢力というと、この歌を上海の退廃的な生活様式と関連付け、映画主役は男性に飲酒をすすめて日本の侵略軍とも国民党軍とも戦えない腑抜けにした売女ではないかとの見方をした(筋書き上は彼女は製造業の跡取りに恋する元ラジオ局勤務の女優である)。 一方、日本軍(ないし中国で敷いた検閲体制)は「何日君再來」の「君」の中国語の発音が「軍」のそれと同じことから、抗日戦に敗れ重慶に撤退した「君(=蔣介石)」に向けて「いつ帰ってくるのか」と呼びかける、いわば抗日的な思想を持った歌であると解釈し、やはり「何日君再來」を排斥しようとした。あるいは「何」が「閡」(ガイ:「門構えに亥:“閡”」で「阻む」という意味)と同音のため「閡日軍再來(日本軍の再来を阻もう)」という意味ととられて抗日的だとみなされた。
※この「日中戦争期」の解説は、「何日君再来」の解説の一部です。
「日中戦争期」を含む「何日君再来」の記事については、「何日君再来」の概要を参照ください。
日中戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:42 UTC 版)
満州事変後、世論やメディアは事変を積極的に評価し、レコード会社はこれに便乗して軍歌を量産し始めた。1932年には爆弾三勇士の顕彰歌が乱発し、メディア各社が公募を行うなど、最終的には20曲近くに達した。 一方で、国内クーデターである五・一五事件を賛美する軍歌も発表されたためこれが大問題になり、1934年、出版法を改正、レコード検閲が開始された。ただし、内務省内の検閲当局は小規模であり、すべてのレコードを検閲することは不可能であったため、「内閲」(レコード会社内部での事前チェック)と「懇談」(当局とレコード会社側でのすり合わせ)という運用方針を確立し、阿吽の呼吸で効率的にレコード市場が国策に深く関わるようになる。
※この「日中戦争期」の解説は、「軍歌」の解説の一部です。
「日中戦争期」を含む「軍歌」の記事については、「軍歌」の概要を参照ください。
- 日中戦争期のページへのリンク