発電所建設
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水利権許可後、名古屋電灯から開発部門が木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、同社において1918年(大正7年)9月に賤母発電所工事実施認可を受けた。翌1919年(大正8年)6月にまず水路工事が完成し、次いで発電所工事もほぼ完成したため通水試験と完成検査を経て7月11日より発電機1台分・出力4,200キロワットにて発電を開始した。さらに残工事の水圧鉄管2条が完成したことで、水車発電機3台すべてが竣工し、11月1日より出力1万2,600キロワットでの運転が始まった。なお、完成後の1921年(大正10年)2月、事業者の木曽電気興業は合併によって大同電力となっている。 建設工事には近くを通る鉄道(中央本線)が活用され、資材輸送は円滑であった。この鉄道を補助する施設として、森林鉄道三留野線と工事区域を繋ぐ軽便鉄道、坂下駅の仮設貨物ホーム、木曽川をつり橋(対鶴橋)で渡り駅と発電所を直結する運搬道路、国道とを繋ぐ重量物運搬用インクラインなどが会社により建設されている。 当初の使用水量は約33立方メートル毎秒であったが、これは発電所付近における平水量55立方メートル毎秒、低水量39立方メートル毎秒よりも少なく、渇水量に近いものであった。使用水量が少ないのは、渇水量に近い量を採用して発電力の季節変動を避けるように設計する、というのが当時の水力発電所の常識であったことによる。1921年8月、大同電力は使用水量を増加して1,500立方尺毎秒(41.74立方メートル毎秒)とする許可を得て、1922年(大正11年)3月に増加分に対する水車発電機1台を増設した。これにより発電所出力は1万4,700キロワットとなった。 1934年(昭和9年)4月には、さらに使用水量を増加し、1,580立方尺毎秒(43.97立方メートル毎秒)とする許可を得た。設備に余力があることからの水量増加であり、翌1935年(昭和10年)5月に発電所出力が1万6,300キロワットへと引き上げられている。
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発電所建設
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西部共同火力発電が火力発電所を建設するにあたって、候補地として小倉市内の九州電気軌道による埋立地と戸畑市(現・北九州市戸畑区)大字中原地先の日本製鐵による埋立地の2か所が挙げられ、比較検討の結果八幡製鉄所に隣接する後者の方が選択された。1936年10月、まず2万5000キロワット発電機2台を新設する第1期工事に着手。次いで1937年(昭和12年)7月より5万キロワット発電機1台を新設する第2期工事も並行して開始した。戦時中で資材不足の折、鋼材は日本製鐵より配給を受け、セメントも安価な製鉄所副生の高炉セメントを活用して費用を節約、機械類も九州水力電気が単独発電所計画に基づいてあらかじめ発注していたものを流用したことから納期・費用ともに想定内であり、工事は円滑に進んだ。結果、予定より半月早い1937年12月16日より戸畑発電所は発電を開始した。 発電開始時点では第1期工事が終了したのみであるため認可出力は2万5000キロワット(他に予備2万5000キロワット)であり、16日より九州水力電気へ1万5000キロワットの供給を開始し、25日より八幡製鉄所への1万キロワットの供給も開始した。その後第2期工事の竣工を待たずに供給増加の必要に迫られたことから、予備出力を常時出力に編入して認可出力を5万キロワットへ引き上げ、1938年(昭和13年)10月より八幡製鉄所へ、11月より九州水力電気へそれぞれ1万キロワットの追加供給を開始し、11月21日より九州電気軌道への5000キロワットの新規供給を始めた。同年12月になって第2期工事が竣工している。
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