発電所建設による就業形態の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:06 UTC 版)
「福島の原子力発電所と地域社会」の記事における「発電所建設による就業形態の変化」の解説
1981年当時の大熊町長・遠藤正によれば、発電所の建設工事が本格化した1970年以降、過去県下で「ビリから2、3番目」だった町民の分配所得は工事関係者相手の商売や建設工事自体による町民の雇用によって大きく好転し、県でトップレベルとなった。やや定量的に見ると、1965年当時は7200名の町民が1000haの水田を生活基盤としていたが、農外所得の増加により農業所得への依存構造は後退し、兼業化や離農が進展したからである。 このメリットの一つは1970年代初頭よりスタートした減反政策に適応出来たことであり、大熊町は1970年代、毎年常に割り当ての百数十%の水田を自主減反し、政策による強制減反の実施を1982年度まで遅らせることに成功した。また、950haの水田を基盤整備することで農業の機械化を促進し、労働力に余剰を生じさせ発電所関連の雇用による農外所得に回すことができた。このため、冷害の激しかった1980年にも町民への所得の打撃は僅少で済んだという。 福島第一原子力発電所5号機と6号機を設置している双葉町の例によると、原子力発電所誘致以前に選択拡大作物の一つであった畜産業は1975年と1990年ではほぼ横ばいである。これは、恒常的な通勤兼業の場合労働配分の上で障碍にならないのは稲作で、1戸当たりの水田が1.1ha程度であるため、農機具を装備すれば兼業の片手間で十分な耕作が可能な、複合経済化に適した作物だったからである。1980年と1990年の比較では、1戸当たりの所得は2.4倍(719万円)に増加し、構成比率でも農外所得が2.0倍、所得の75%を占めるに至った。 問題は農機具の投資が過剰装備となること(機械化貧乏)であるが、土・日曜日の操業で効率を上げるためにはこれらの農業機械は必須でもあった。1990年当時では1戸の農家が稲作を行おうとすると1000万円の投資が必要とされ、耕耘機、田植機、コンバイン、バインダー、スプレアー等の装備率は農家1戸に対していずれも1.0台以上だった、その他、安定成長期以降の日本ではどこでも見られた後継者難、三ちゃん農業化も進行している。 また、農業就業者の減少傾向は立地自治体でも徐々に進行し、双葉町の場合、1975年の総就業人口数3,872人の内、第一次産業は36.6%(大半が農業)を占めていたものが、1990年の総就業人口3,915人の内第一次産業は15.0%に減少した。 なお、東電環境エンジニアリングを始めとする保修関係の企業も進出していたが、縦割り的な就業構造となっており、地元建設業者は中々参入しにくい構造であったという。進出してきたメーカーでも排水対策が問題となったが、海へ直接放出する事とした。漁業補償については発電所立地の際に交渉妥結済みであったからだという。一方、伊東達也は、県内立地町村全般に見られる特徴として、福島第一1号機が着工された1967年から県内の建設業者数がピークを迎えた1996年まで、楢葉町以外の3町では県内の建設業者数増加率に比較し、大幅に高いペースで増加していたと指摘している。
※この「発電所建設による就業形態の変化」の解説は、「福島の原子力発電所と地域社会」の解説の一部です。
「発電所建設による就業形態の変化」を含む「福島の原子力発電所と地域社会」の記事については、「福島の原子力発電所と地域社会」の概要を参照ください。
- 発電所建設による就業形態の変化のページへのリンク