遵義会議
遵義会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 06:56 UTC 版)
(遵義会議を記した当時の文書は存在せず、また共産党からも公開されていない。以下は1949年以降共産党が出した文書を元に通説を記す) ここまでの行軍で疲弊しきった紅軍及び党中央は遵義で10日あまりの休養を得る。この休養期間中、1935年1月15日から1月17日、その後の行軍方針と戦略を決定する遵義会議が開催され、この中で従来の共産党指導者であった秦邦憲、オットー、周恩来が批判の対象となった。周恩来は自らの過ちを認めて朱徳らと共に毛沢東を支持し、毛沢東が政治局員のリーダーに選出された。しかし、海外留学経験のない毛沢東はまだ単独で共産党を指導できる立場に無く、周恩来、王稼祥との三頭政治となった。また、瑞金第5次囲剿に際して戦略的にも戦術的にも致命的ミスを起こしたオットーは更迭された。この遵義会議が中国共産党における一大転換点となっている。
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