中華人民共和国建国まで
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第一次国共合作の崩壊後は中国国民党支配地域(白区)を中心とした様々な地下活動に従事。1934年10月より長征に参加し、遵義会議では毛沢東を支持した。1935年の十二・九運動の発生を受けて党中央より華北に派遣される。1936年には党の北方局書記となり、華北地区での抗日運動を指導した。1941年の皖南事変後、壊滅状態となった新四軍の政治委員となり、軍の再建と華中地区の根拠地拡大に務めた。この間、党員の規律や指導についての著書『共産党員の修養を論ず』を執筆し、同書は劉の主著として広く党内で読まれた(戦後の日本の左翼運動でもテキストに使われた)。 1943年、延安に戻り党中央書記処(現在の中央政治局常務委員会)の書記に就任。整風運動にも従事する。1945年4月から6月にかけて開催された第7回全国代表大会(党大会)では「党規約の改正についての報告」を発表し、この中で「毛沢東思想」という言葉を初めて公式の文書に使用している。また、この大会後、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で党内序列2位の中央委員・中央政治局委員・中央書記処書記に選出された。第二次世界大戦、および日中戦争の日本の敗戦後に行われた重慶での蔣介石との会議に毛沢東が赴いた際には、延安で党主席の代理を務めている。建国直前の1949年7月には、党中央代表団を率いて秘密裏にソ連を訪れ、スターリンと会談した。その主要目的は、中ソ両党間の意思疎通・関係正常化と、新中国の国づくりの基本方針の説明とその了解を求めること、とされる。
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中華人民共和国建国まで
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1902年10月12日に山西省曲沃県に誕生する。元名は傅 懋功。1922年に山西省立第一中学に入学し、この頃マルクス主義に触れる。1923年に中国社会主義青年団に入り、さらに山西省共産党の結党メンバーとして中国共産党に加わった。1926年以降天津市党委書記代理、同委書記、順直省党委常務委員などを歴任した。1929年に天津で逮捕されるが、投獄中も地下活動として党活動を続けた。1935年に仲間の助けにより脱獄。1936年には党北方局代表兼組織部長に任命され、中華民族解放先鋒隊総隊部を指導した。1941年に党中央組織部長に就任した。1945年の第7回党大会において中央委員に当選し、中央政治局委員、中央書記処候補書記に任命される。同年9月に東北部に赴き、中央東北局書記、東北民主連軍政治委員を務める。国共内戦時の1948年には北平市(北京市)党委員会書記を兼任し、1949年1月31日における共産党の北京市無血入城に大きな貢献をしたと言われている。
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