毛沢東の党内権力確立まで
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「中国共産党中央委員会主席」の記事における「毛沢東の党内権力確立まで」の解説
1935年1月の遵義会議以降、中国共産党における指導権を掌握していった毛沢東は、総書記として党運営の最高責任者の地位にあった張聞天(中国語版)を退け、1943年3月20日の党中央政治局会議において中国共産党中央政治局主席兼中央書記処主席に就任した。この会議では、党中央政治局がすべての重大問題を決定する権限を持つこと、中央政治局が決定した方針に基づいて党中央書記処(現在の中央政治局常務委員会)が党の日常活動を処理すること、毛沢東が中央書記処の主席として中央書記処の最終的決定権をもつことが決議された。これにより、毛沢東は党の最終決定権を獲得した。 1945年、第7回党大会で毛沢東思想が中国共産党規約(中国語版、英語版)に指導理念として加えられ、党の最高指導機関である党中央委員会の最高位として中国共産党中央委員会主席の職が設置された。この党大会で制定された党規約では党中央委員会主席が中央政治局と中央書記処の主席を兼職することが定められたため、党中央委員会主席は党の最高職として位置づけられた。同年6月19日の第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)において、毛沢東は正式に中国共産党中央委員会主席に就任し、毛の権威と権力は全党的なものとなった。
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