毛沢東との関係
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毛沢東とは広い中国の中では「同郷」といって差し支えないほど出身地が近い(生家については彭徳懐故居を参照)。このため、中華人民共和国成立後も、毛沢東に対して「主席」という敬称のかわりに「老毛」と呼びかけたり、ノックもしないで部屋に入り、寝ている毛沢東をたたき起こすなど、遠慮ない態度で接する唯一の高級幹部であったが、毛沢東もこれを許容する間柄であった。「東方紅」を歌ったり、毛沢東を賛美する言葉を言うこともはじめから拒否していた。 廬山会議で毛沢東は彭徳懐の私信を読んで気分を害し、一睡もできなかった。後日毛が批判したとき、両者は相当に汚い罵り言葉で応酬したという。彭が私信を公開したことに抗議すると、「君は、公開するなと言わなかったよ。」とかわされ激怒した。その直後、毛沢東が「同志。もう一度話し合おうよ。」と声をかけても、彭徳懐は「もう、君と話すことなんかあるものか。無駄だ。」と叫び、拳を振り下ろして立ち去った。廬山会議終了後、彭徳懐が「私はあなたの生徒なのですよ。間違ったら直接批判し教えてくれればよいのに、なぜこんなことをするのですか!」と、毛に、私信を公開して批判したことをなじったが、毛沢東は顔を曇らせて手を振って立ち去った。 1965年9月23日の早朝、毛沢東は彭徳懐に電話をかけた。彭徳懐は毛沢東の家にかけつけ、二人は廬山会議以来久しぶりに再会した。毛沢東は懐かしそうに彭徳懐の手をにぎりしめ「君というやつは。・・・普段は顔を見せないくせに、手紙と来たら何万字も書くんだな。」と冗談を言い、二人はすっかりうちとけて午後3時まで話し合った。それもつかの間、翌年には彭徳懐は紅衛兵によって暴行されるのである。
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