毛沢東の一時失脚・文化大革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 00:30 UTC 版)
「大躍進政策」の記事における「毛沢東の一時失脚・文化大革命」の解説
毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、「生産量を増大させた」地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そして各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年中央に「党の指導で、前年より更にこれだけ飛躍的に生産を拡大させた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている。 1959年、農業生産が激減、全国で大飢饉が発生したことで党内の権力基盤が弱まり、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失った。しかし、国家主席を継いだ劉少奇からの復権を狙い、1966年に毛沢東は文化大革命を起こす。
※この「毛沢東の一時失脚・文化大革命」の解説は、「大躍進政策」の解説の一部です。
「毛沢東の一時失脚・文化大革命」を含む「大躍進政策」の記事については、「大躍進政策」の概要を参照ください。
- 毛沢東の一時失脚・文化大革命のページへのリンク