叛乱の勃発とは? わかりやすく解説

叛乱の勃発(アルマリク)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 15:40 UTC 版)

シリギの乱」の記事における「叛乱の勃発(アルマリク)」の解説

ノムガン軍はモンゴル高原出発して中央アジア趣きアルマリク駐屯した。アルマリクでの駐屯中、トク・テムル狩猟中にシリギ密談し遠征軍中枢たるノムガンアントン捕縛するという叛乱計画話し合った。更にトク・テムルシリギカアン推戴することを餌に叛乱誘い、この企てモンケ家のサルバンアリクブケ家のヨブクルメリク・テムルコルゲン家のクルタイら諸王賛同し叛乱荷担した。ただ、トルイ庶子ボチュクの孫のヤクドゥのみは叛乱荷担することを拒んでシリギヨブクルトク・テムルらに攻められトク・テムルによって生け捕りにされたヤクドゥシリギ軍の捕虜とされた。 ヤクドゥ以外の諸王協力取り付けたトク・テムルシリギらは至元13年1276年)冬、満を持してノムガンアントン遠征軍中枢奇襲し捕虜とし、これが以後6年わたって大元ウルスを揺らがせる「シリギの乱」の幕開けとなったトク・テムルシリギ叛乱に誘う時に帝位カアン位)は汝(シリギ)に到達している。カアンクビライ)は我々と我々の兄弟に対して多くの不正を働いていたのだ」と語っており、クビライ簒奪者としモンケ-アリクブケ流れをくむ自らたちこそが正統カアン位の継承者であるとするのがトク・テムル叛乱軍の立場であったまた、シリギの乱勃発から間もなくクビライの下に「西北藩王(旧アリクブケ派の諸王)」から派遣され使者訪れ、「モンゴル風俗漢法異なるものであるというのに、[クビライが]漢地留まり都邑城廓建設し漢法用いるのは如何なる理由よるものか?」とクビライ統治方針批判している。 以上のように、「漢化政策実行しモンゴル伝統無視するクビライ打倒」と、「先帝モンケ遺児シリギ擁立によるモンゴル伝統文化維持」こそが叛乱軍の掲げた大義名分であった

※この「叛乱の勃発(アルマリク)」の解説は、「シリギの乱」の解説の一部です。
「叛乱の勃発(アルマリク)」を含む「シリギの乱」の記事については、「シリギの乱」の概要を参照ください。

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