叛乱の失敗と失墜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:43 UTC 版)
「マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン」の記事における「叛乱の失敗と失墜」の解説
マリー・カロリーヌはフランス王位を正統な王であるべき息子アンリに継がせるべく、オルレアン家出身の王ルイ・フィリップを王座から引きずり落とすことを画策した。1832年4月、彼女は農婦に変装し、ナポリからマルセイユに向かった。フランスに上陸するとマリー・カロリーヌは「フランスの摂政」だと宣言した。シャルル10世は亡命先から、彼女がフランスの摂政ではないという声明を出した。フランス西部ヴァンデ県へ潜入したのち、マリー・カロリーヌはブルボン家支持者アルマサン公らとともに叛乱を起こした。しかし、この叛乱自体は稚拙なもので、鎮圧されてマリー・カロリーヌは逮捕された。ヴァンデに行く前にマリー・カロリーヌは、さまざまなヨーロッパ君主に自分の叛乱への支持を懇願していた。オランダ国王ウィレム1世だけは、アンリが即位した場合、ベルギーをフランスに割譲すると約束したが、他の君主たちは支援を断った。 獄中で裁判を待つ身であったマリー・カロリーヌは、とんでもない事実を明らかにした。フランス潜入前に滞在していたイタリアで教皇の承認を得て、1831年12月14日にイエズス会の司祭ロザヴェン神父のもとでエットーレ・ルケージ・パッリ伯爵との結婚式を行ったと主張し、伯爵との子を妊娠しているというのである。実際には、マリー・カロリーヌが身ごもっていた子供はルッケーシ=パッリ伯爵の子ではなく、ヴァンデ潜入中に青年弁護士ギブールと恋仲になった末にできた子と言われている。ルケージ・パッリ伯は、主君である両シチリア王の姉マリー・カロリーヌのため、全てを承知で結婚したのだった。 この一件で、「奇跡の子」の生母マリー・カロリーヌの威信は地に落ちた。亡命中のシャルル10世は義理の娘の不貞に怒り、彼女はブルボン家から縁を切られた。マリー・カロリーヌは、1833年5月10日にブライユの獄中で娘アンナ・マリア・ロザリア=ルケージ・パッリを出産した。1ヵ月後に母子は釈放され、夫がいるシチリアに向かったが、釈放から2ヵ月後にアンナ・マリア・ロザリアは死亡した。その後、マリー・カロリーヌはルッケーシ=パッリ伯との間に4人の子をもうけた。 思いがけない形で母を失ったルイーズとアンリは、伯母マリー・テレーズに養育された。ルイーズは1845年に亡命先のゴリツィアのグラッファンベルク城からパルマ公カルロ3世に嫁いだ。長い間マリー・カロリーヌはブルボン家とは和解出来ない状態が続いたが、マリー・テレーズの取り計らいによりシャルル10世及び義兄・アングレーム公の死後にルイーズとアンリと和解した。1870年にグラーツで亡くなった。
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