叛乱後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 13:31 UTC 版)
一連の叛乱終結により遠江国内の情勢は安定化し、また今川氏真による徳政令・楽市・用水問題の裁定等の積極的な領国経営策により遠江国の支配は安定化した。その一方で遠江国での叛乱により三河国における今川氏の影響力は極端に弱まり、永禄6年(1564年)2月には長らく今川方であった奥平定能が離反し、同9年(1566年)5月には唯一三河国内で今川方に残留していた牛久保城主・牧野成定までも松平氏に従属したことから、三河国から今川氏の影響力は完全に排除された。 また遠江国内での長期にわたる叛乱の継続は今川氏真の同盟相手であった武田信玄の氏真に対する不信感を招き、氏真の国主としての器量を疑問視する引き金となったとする説もある。この説によると、遠州忩劇を経て生じた信玄の氏真に対する不信感が今川・武田間の外交関係の悪化を招き、義信事件や武田氏の駿河侵攻を招く事態となったとされている。 今川氏真は遠州忩劇の終結後も駿河・遠江二ヵ国の大名として存立するが、永禄11年(1568年)から開始された武田信玄・徳川家康による今川領国の侵攻を受け、やがてその領国を失うことになる。
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