叛乱未遂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:04 UTC 版)
11月下旬、10月11日のサボ島沖海戦で沈没した重巡洋艦「古鷹」や駆逐艦「吹雪」の生存者180名(約100名とも)がフェザーストン捕虜収容所に入所した。このグループは、古鷹の三番砲塔砲台長安達敏夫少尉に率いられていて、後に「古鷹グループ」と呼ばれるようになる。なお「古鷹グループ」の入所時に、収容所内の別キャンプにいる強硬派からニュージーランド兵を襲撃して武器を奪い、ウェリントンに攻めのぼる計画があることを手首を使った手旗信号で伝えられるが、「古鷹グループ」をはじめほとんどの捕虜がこの計画を一笑に付していた。 しかし、強硬派10数名が「古鷹グループ」のキャンプに移送されてから状況は一変する。これは、強硬派が主張する暴動に巻き込まれることを恐れた設営隊員たちが、戦闘員と非戦闘員の居住区を別にするようニュージーランド軍に要請したために行われた措置であったのだが、移送された強硬派メンバーは捕虜たちを根強く説得したため、キャンプの中には強硬派に同調する者も出始めた。そのため、キャンプ内は安達少尉率いる穏健派グループと強硬派グループに分裂することになり、収容所内の捕虜を二分した。 やがて強硬派は、12月25日午前0時をもって一斉蜂起をすることを決めた。その情報を事前に察知した穏健派グループは、白布を味方識別の腕章とし、叛乱を事前に阻止すべく棍棒と鉄パイプで武装して、強硬派グループを待ち伏せた。しかし、叛乱決行の1時間前にバリケード外のライトが一斉に照射され、収容所内のスピーカーからは日本語で投降を勧告する放送が流れ始めた。これは、穏健派グループの動きを知った強硬派幹部の一人が、同士討ちを避けるべくニュージーランド軍に通報したためであった。その後、強硬派グループは安達少尉の1時間にわたる説得に応じ、叛乱を諦めることとなった。 この事件の後、収容所内の雰囲気は穏やかとなり、グループ間の対立も表面上は見られなくなった。 翌1943年(昭和18年)2月中旬には、第三次ソロモン海戦やその後の鼠輸送での沈没艦(駆逐艦暁や照月など)の生存者やガダルカナル島の戦いで捕虜になった陸軍将兵が入所し、フェザーストン捕虜収容所に入所した捕虜は、戦闘員約280名と設営隊員約270名の合計約550名となった。
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