叛乱の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:14 UTC 版)
「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「叛乱の終焉」の解説
ポチョムキンのもとに留まった装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツでは、乗員がポチョムキンの乗員と話し合った結果、自艦の士官たちを逮捕し、蜂起に合流した。しかし、すぐにゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちのあいだには仲間割れが生じた。叛乱へ安易に同調したことを後悔した者たちが艦長や士官らを艦へ復帰することを許し、叛乱の首謀者68 名を引き渡した。ゲオルギーはポチョムキンのもとを離れ、政府側に引き渡されることとなった。ポチョムキンの蜂起には、次第に敗北の影が忍び寄ってきていた。 オデッサでの食料や水、燃料といった必要物資の補給に失敗したポチョムキンは、黒海を渡ってルーマニアを目指すことにした。6月19日、ポチョムキンは第267号水雷艇を伴ってコンスタンツァへ到着した。しかしそこでも必要物資を得るはできず、彼らはフェオドーシヤを目指した。これを知ったニコライ2世は、チュフニーンへ「港へのポチョムキンによる強請り集りをやめさせよ」という電報を打った。 6月22日朝6時、ポチョムキンはフェオドーシヤへ到着した。そこでは、政府軍と憲兵団が待ち構えていた。 一方のクリーゲル中将は、その日の午前8時にドヴェナッツァチ・アポーストロフ、ロスチスラフ、トリー・スヴャチーチェリャ、それに6 隻の水雷艇からなる艦隊を率いてオデッサに到着した。そして、叛乱の鎮圧された装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツを接収し、15時にはセヴァストーポリへ向けて帰路に就いた。オデッサには、ポチョムキンの帰港に備えて第272号水雷艇と第273号水雷艇を残した。 艦隊がセヴァストーポリへ向かっていた頃、チュフニーンはF・K・アヴェラーン海軍大臣からの電報を受け取った。「ポチョムキンは石炭と水を、拒否した場合に砲撃すると脅してフェオドーシヤ市役所へ要求している。そのような行動を許さぬよう、最も思い切った措置が必要である。必要とあらば、ポチョムキンを撃沈せよ。アヴェラーン」 艦隊には、セヴァストーポリ北湾に戻る暇はなかった。チュフニーン中将はクリーゲルに対し、艦隊をフェオドーシヤへ差し向けてポチョムキン明け渡しを説得し、反抗的であった場合には雷撃ないし砲撃によって撃沈せよという命を与えた。黒海艦隊水兵の気分を考慮に入れ、チュフニーンは特に次のように付け加えた。「自明のことながら、フェオドーシヤに向かいながら、艦隊は完全な戦闘態勢をとらなければならない。事態の変化あるいは失敗に際しては、状況を見て貴官の裁量に任せる。」恐らく、艦隊司令官自身が遠征の成功をあまり信じていなかった。艦隊の出港前、彼は乗員に対し「愛国的な」言葉を述べ、「自らの責務を果たす」よう訴え掛けた。水兵らは、沈黙を以って答えた。しかしながら、水兵らの明らかなポチョムキン水兵への同情にも拘らず、チュフニーンはクリーゲルにフェオドーシヤ行きの命令を下した。6月23日14時、セヴァストーポリから装甲艦ロスチスラフ、ゲオルギー・ポベドノーセツ、ドヴェナッツァチ・アポーストロフ、トリー・スヴャチーチェリャ、巡洋艦パーミャチ・メルクーリヤ、水雷巡洋艦カザールスキイ、水雷艇駆逐艦ザヴィードヌイ、スヴィレープイ、スメトリーヴイ、ストローギイ、第270号水雷艇が出港した。しかし、彼らはフェオドーシヤで叛乱艦に出遭うことはなかった。またも必要物資の獲得に失敗したポチョムキンは、再びコンスタンツァへ去っていたのである。 6月24日、コンスタンツァに到着したポチョムキンは乗員によってルーマニア政府に引き渡された。第267号水雷艇の乗員はルーマニア政府への艇の引渡しを望まず、セヴァストーポリへ引き返した。ロシア政府とルーマニア政府のあいだでポチョムキン返還の談合が成立すると、装甲艦チェスマ、シノープ、第261・262・264・265号水雷艇からなる艦隊がコンスタンツァへ派遣された。6月26日にはコンスタンツァへ到着し、翌27日、ルーマニアはロシアにポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した。7月1日、艦隊はセヴァストーポリに帰着した。
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