パルチザンの攻勢とは? わかりやすく解説

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パルチザンの攻勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)

尼港事件」の記事における「パルチザンの攻勢」の解説

冬期11月から5月)のニコラエフスクは、港が氷に閉ざされ陸路のみとなる。ニコラエフスク駐屯していた第14師団主力は、ハバロフスクにいたが、その間は、氷結したアムール川氷上通行があるのみだった。しかも、パルチザン横行するようになった1919年の末ころから、それも不可能に近くなっていた。 1919年10月、ハバロフスク・ニコラエフスク間のロシア電線パルチザン遮断し、街と外部との連絡は、日本海軍無線電信に頼るのみになっていた。 1920年1月ニコラエフスク駐留していた日本陸軍は、石川正雅少佐以下、水戸歩兵第2連隊第3大隊のおよそ300名に、通信衛生憲兵野戦郵便局員加えて330余名だった。海軍は、石川光儀少佐三宅駸吾少佐 以下40数名だったので、総計370余名である。 白軍弱体化により、ニコラエフスク市内の治安維持は、白軍司令官メドベーデフ大佐前面出しながらも、実質的に日本軍が担うことになり、1月10日には、夜間外出禁止令などが布告され戒厳に近い状態となった。 1月23日300人ほどのパルチザン部隊が、氷結したアムール川対岸から、ニコラエフスク襲撃してきたが、ロシア旧式野砲修理して用意していた日本軍が、砲撃加えたために、すぐに退散した。 翌24日26日には、三宅海軍少佐石田副領事 より、海軍軍令部長および外務大臣対し陸戦隊の派遣求め無線連絡があり、ニコラエフスク救援隊派遣検討はじまった

※この「パルチザンの攻勢」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「パルチザンの攻勢」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。

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