ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争
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「ウラジーミル・レーニン」の記事における「ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争」の解説
レーニンは、ロシアの貴族階級とブルジョワ階級が自らの政権に敵対することは予想していたが、数的に優位な下層階級をボリシェヴィキが有効に組織することにより、いかなる抗争でも速やかに勝利することが可能であると考えており、ボリシェヴィキによる支配に対して実際に生じた抵抗の激しさを予期していなかった。十月革命後に勃発したロシア内戦は、ボリシェヴィキ派の赤軍と反ボリシェヴィキ派の白軍との間の戦争であっただけでなく、ロシア国境地帯における民族間紛争をも包含するものであり、また旧ロシア帝国領全域で農民を中心とした緑軍が赤軍と白軍の両者に敵対した。 白軍は旧ロシア帝国軍将校により組織され、ロシア南部を拠点とするアントーン・デニーキンの義勇軍、シベリアを拠点とするアレクサンドル・コルチャークの軍、新たに独立を獲得したバルト諸国に拠点を置くニコライ・ユデーニチの軍などによって構成された。白軍は、1918年5月にチェコ軍団がボリシェヴィキに対して反乱を起こし、その後反ボリシェヴィキ派の政府である「憲法制定議会議員委員会(コムーチ)」と同盟を結んだことで鼓舞された。社会革命党員によって1918年6月にサマーラで結成されたコムーチは、ボリシェヴィキによって強制的に解散させられた憲法制定議会の名を冠し、自らがロシアの正当な政府であると主張した。さらに白軍は、ブレスト=リトフスク条約の締結を裏切り行為と捉え、またボリシェヴィキが提唱する世界革命の勃発を恐れる連合国諸政府から支援を受けた。 ボリシェヴィキの軍隊である労働者・農民赤軍(以下、赤軍)は1918年1月に創立され、当初は志願兵によって構成される脆弱な軍事組織であったが、軍事人民委員であるレフ・トロツキーの尽力によって強化された。1918年9月、トロツキーはレーニンの支援のもとで革命軍事会議を創設し、その議長に就任した(トロツキーは1925年まで同職に留まった)。レーニンは、旧ロシア帝国軍の将校が有する貴重な軍事的技能を認識し、彼らを赤軍へと編入することに同意したが、その活動はトロツキーが設立した革命軍事会議によって常に監視されることとなった。赤軍がロシアの二大都市であるモスクワとペトログラード、および大ロシア(英語版)の大部分を支配下に置いていたのに対し、白軍は主に旧ロシア帝国領の外周に存在しており、一体性に欠け、地理的に分散している点で不利であった。反ボリシェヴィキ軍はボリシェヴィキ支持者と見做された者に対して白色テロ(英語版)と呼ばれる暴力運動を行ったが、それは国家的承認のもとで行われた赤色テロと比べて多くの場合より自然発生的であった。白軍と赤軍はともにユダヤ人コミュニティを標的とした攻撃を行ったため、レーニンは公に反ユダヤ主義を糾弾し、ユダヤ人に対する偏見を煽っているのは資本主義者によるプロパガンダ(英語版)であると主張した。 1918年7月、元ロシア皇帝ニコライ2世の一家が進撃中の白軍に救出されることを防ぐため、エカテリンブルクで一家の処刑が実行されたことが、ヤーコフ・スヴェルドロフによって人民委員会議に報告された。一部の歴史家および伝記作家(リチャード・パイプス、ドミトリー・ヴォルコゴーノフなど)は、証拠は存在しないものの、処刑の実行がレーニンによって認可されていた可能性が高いとの見解を示している。 反対に、ジェームズ・ライアンのような歴史家はそのような見解を信じるべき理由はないと警告している。処刑を認可したか否かに関わらず、レーニンはフランス革命におけるルイ16世の処刑を引き合いに出し、元ロシア皇帝一家の殺害を必要不可欠なものであったと評価した。 ブレスト=リトフスク条約の締結後、左翼社会革命党は連立政権から離脱し、ボリシェヴィキは革命の裏切り者であるとの見方を強めていった。1918年7月、左翼社会革命党員ヤーコフ・ブリュムキン(英語版)が駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハを暗殺したが、その動機は大使暗殺によって引き起こされる外交問題がドイツ帝国に対する革命戦争の再開につながるとの希望であった。その後、左翼社会革命党はモスクワでクーデターを起こし、クレムリンを砲撃し、モスクワ市中央郵便局を占拠したが、最終的にトロツキーが率いる軍勢によって制圧された。左翼社会革命党の指導者と党員の多くは逮捕・収監されたが、他の反ボリシェヴィキ勢力と比較してより寛大な扱いを受けた。 1919年までに、白軍は3方面すべての前線で劣勢に追いやられ、1920年を迎える頃には赤軍への敗北が確定的となった。ボリシェヴィキは白軍に勝利したものの、その間に多くの非ロシア系民族が混乱に乗じて国家的独立を推し進めたため、ロシアの領土範囲は縮小していた。北東ヨーロッパ諸国(エストニア、ラトビア、リトアニア、フィンランド等)の場合などには、ソビエト政府はその独立を承認した上で、それぞれと平和条約を締結したが、その他の分離独立運動は赤軍によって鎮圧された。赤軍は1921年までにウクライナの民族運動を制圧し、またコーカサスを占領したが、中央アジアでの戦闘は1920年代末まで継続した。 ドイツ軍が連合国との休戦協定を結び東部前線から撤退した後、空白となった地域には赤軍とポーランド軍の両者が進出した。新たに独立を獲得したポーランドはソビエト政府と同じくこの地域での領土獲得を望んでおり、1919年2月にはポーランド軍と赤軍の間で最初の衝突が発生し、両者の争いはポーランド・ソビエト戦争へと発展した。ソビエト政府がそれまでに経験した抗争とは異なり、ポーランドとの戦争は革命の国外への輸出およびヨーロッパの未来に対して大きな意味合いを持っていた。ポーランド軍はウクライナに侵攻しており、1920年5月までにキエフを占領していた。ポーランド軍を撤退させることに成功した後、レーニンは赤軍がポーランド本国に侵攻することを要求した。レーニンは、侵攻を実行すればポーランドのプロレタリアートは赤軍を助けるために反乱を起こし、それが全ヨーロッパ的な革命勃発の導火線となることを信じていた。トロツキーら他のボリシェヴィキはレーニンの予想に懐疑的であったものの、ポーランド侵攻には同意した。結果的に、ポーランドのプロレタリアートが反乱を起こすことはなく、赤軍はワルシャワの戦い(英語版)でポーランド軍に敗北を喫した。ポーランド軍によって赤軍がロシアまで押し返されると、ソビエト政府は和平を模索し、ポーランドに領土を割譲することを認めたリガ平和条約の締結によって戦争は終結した。
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