ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争の意味・解説 

ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:58 UTC 版)

ウラジーミル・レーニン」の記事における「ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争」の解説

レーニンは、ロシア貴族階級ブルジョワ階級が自らの政権敵対することは予想していたが、数的に優位な下層階級ボリシェヴィキ有効に組織することにより、いかなる抗争でも速やかに勝利することが可能であると考えており、ボリシェヴィキによる支配に対して実際に生じた抵抗激しさ予期していなかった。十月革命後勃発したロシア内戦は、ボリシェヴィキ派の赤軍と反ボリシェヴィキ派の白軍との間の戦争であっただけでなく、ロシア国境地帯における民族紛争をも包含するものであり、また旧ロシア帝国全域農民中心とした緑軍赤軍白軍両者敵対した白軍旧ロシア帝国将校により組織されロシア南部拠点とするアントーン・デニーキン義勇軍シベリア拠点とするアレクサンドル・コルチャークの軍、新たに独立獲得したバルト諸国拠点を置くニコライ・ユデーニチの軍などによって構成された。白軍は、1918年5月チェコ軍団ボリシェヴィキに対して反乱起こしその後ボリシェヴィキ派の政府である「憲法制定議会議員委員会(コムーチ)」と同盟結んだことで鼓舞された。社会革命党員によって1918年6月サマーラ結成されたコムーチは、ボリシェヴィキによって強制的に解散させられ憲法制定議会の名を冠し、自らがロシア正当な政府であると主張した。さらに白軍は、ブレスト=リトフスク条約の締結裏切り行為捉え、またボリシェヴィキ提唱する世界革命勃発恐れ連合国諸政府から支援受けたボリシェヴィキ軍隊である労働者・農民赤軍(以下、赤軍)は1918年1月創立され当初志願兵によって構成される脆弱な軍事組織であったが、軍事人民委員であるレフ・トロツキー尽力によって強化された。1918年9月トロツキーレーニン支援のもとで革命軍事会議創設し、その議長就任したトロツキー1925年まで同職に留まった)。レーニンは、旧ロシア帝国軍の将校有する貴重な軍事的技能認識し、彼らを赤軍へと編入することに同意したが、その活動トロツキー設立した革命軍事会議によって常に監視されることとなった赤軍ロシアの二大都市であるモスクワペトログラード、および大ロシア英語版)の大部分支配下置いていたのに対し白軍は主に旧ロシア帝国領の外周存在しており、一体性欠け地理的に分散している点で不利であった。反ボリシェヴィキ軍はボリシェヴィキ支持者見做された者に対して白色テロ英語版)と呼ばれる暴力運動行ったが、それは国家的承認のもとで行われた赤色テロ比べて多く場合より自然発生的であった白軍と赤軍はともにユダヤ人コミュニティ標的とした攻撃行ったため、レーニン公に反ユダヤ主義糾弾しユダヤ人対す偏見を煽っているのは資本主義者によるプロパガンダ英語版)であると主張した1918年7月、元ロシア皇帝ニコライ2世一家進撃中の白軍救出されることを防ぐため、エカテリンブルク一家処刑実行されたことが、ヤーコフ・スヴェルドロフによって人民委員会議報告された。一部歴史家および伝記作家リチャード・パイプスドミトリー・ヴォルコゴーノフなど)は、証拠存在しないものの、処刑実行レーニンによって認可されていた可能性が高いとの見解示している。 反対にジェームズ・ライアンのような歴史家そのような見解信じるべき理由はないと警告している。処刑認可したか否か関わらずレーニンフランス革命におけるルイ16世処刑引き合い出し、元ロシア皇帝一家殺害必要不可欠なものであった評価したブレスト=リトフスク条約の締結後、左翼社会革命党連立政権から離脱しボリシェヴィキ革命の裏切り者であるとの見方強めていった。1918年7月左翼社会革命党員ヤーコフ・ブリュムキン(英語版)が駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハを暗殺したが、その動機大使暗殺によって引き起こされる外交問題ドイツ帝国対す革命戦争再開につながるとの希望であったその後左翼社会革命党モスクワクーデター起こしクレムリン砲撃しモスクワ市中央郵便局占拠したが、最終的にトロツキー率い軍勢によって制圧された。左翼社会革命党指導者党員多く逮捕・収監されたが、他の反ボリシェヴィキ勢力比較してより寛大な扱い受けた1919年までに、白軍は3方面すべての前線劣勢に追いやられ、1920年迎える頃には赤軍への敗北確定的となったボリシェヴィキ白軍勝利したものの、その間多くの非ロシア系民族混乱乗じて国家的独立推し進めたため、ロシア領土範囲縮小していた。北東ヨーロッパ諸国エストニアラトビアリトアニアフィンランド等)の場合などには、ソビエト政府はその独立承認した上でそれぞれ平和条約締結したが、その他の分離独立運動赤軍によって鎮圧された。赤軍1921年までにウクライナ民族運動制圧し、またコーカサス占領したが、中央アジアでの戦闘1920年代末まで継続したドイツ軍連合国との休戦協定を結び東部前線から撤退した後、空白となった地域には赤軍ポーランド軍両者進出した新たに独立獲得したポーランドソビエト政府同じくこの地域での領土獲得望んでおり、1919年2月にはポーランド軍赤軍の間で最初の衝突発生し両者争いポーランド・ソビエト戦争へと発展したソビエト政府それまで経験した抗争とは異なりポーランドとの戦争革命国外へ輸出およびヨーロッパ未来に対して大きな意味合い持っていた。ポーランド軍ウクライナ侵攻しており、1920年5月までにキエフ占領していた。ポーランド軍撤退させることに成功した後、レーニン赤軍ポーランド本国侵攻することを要求したレーニンは、侵攻実行すればポーランドプロレタリアート赤軍助けるために反乱起こし、それが全ヨーロッパ的な革命勃発導火線となることを信じていた。トロツキーら他のボリシェヴィキレーニン予想懐疑的であったものの、ポーランド侵攻には同意した結果的にポーランドプロレタリアート反乱を起こすことはなく、赤軍ワルシャワの戦い英語版)でポーランド軍敗北喫したポーランド軍によって赤軍ロシアまで押し返されると、ソビエト政府和平模索しポーランド領土割譲することを認めたリガ平和条約締結によって戦争終結した

※この「ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争」の解説は、「ウラジーミル・レーニン」の解説の一部です。
「ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争」を含む「ウラジーミル・レーニン」の記事については、「ウラジーミル・レーニン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争」の関連用語

ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのウラジーミル・レーニン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS