ロシア動乱時代
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「ポーランド・リトアニア・モスクワ共和国」の記事における「ロシア動乱時代」の解説
再びこの構想が持ち上がったのは、1584年にイヴァン4世が、1586年にポーランド王ステファン・バートリが死んだ後であった。新たなツァーリとなったフョードル1世はポーランド王位に強い関心を示し、1587年にポーランドへ使節を派遣した。リトアニア人にはフョードルへの支持が広がったが、ポーランド人は彼にカトリックへの改宗やクラクフへの移住といった実質不可能な要求を突き付けた。ロシア側も金銭的な選挙活動を怠るなど積極性に欠け、結局スウェーデン・ヴァーサ家からジグムント3世がポーランド王となった。1598年にフョードル1世が没するとジグムント3世は逆にロシア帝位を狙ったが、彼の外交使節がモスクワに到達した頃にはすでにボリス・ゴドゥノフが新たなツァーリに選出されていた。 ボリス・ゴドゥノフは有能な君主だったが在位を通じてその正統性を疑われ続け、偽ドミトリー1世の出現とボリスの病死によってロシアは動乱時代(スムータ)に突入した。これと裏表のような関係で勃発したのがロシア・ポーランド戦争であった。ポーランドは初期には偽ドミトリー1世を支援したが短期間の成功に終わり、次いでジグムント3世の皇子ヴワディスワフ(後のポーランド王ヴワディスワフ4世)をツァーリに推し立てようとして全面的にロシアの内乱に介入した。数々の僭帝や泡沫の中で彼は簡単にモスクワに入ることができたが、交渉が停滞し正式な戴冠ができないうちに全国会議が推戴したミハイル・ロマノフに敗れ、撤退を余儀なくされた。
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