ロシア北方の海路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:08 UTC 版)
ロシア人の北極海航路開拓への当初の動機は、経済的な理由であった。ロシアでは、大西洋と太平洋をユーラシア大陸の北方で結ぶ航路があるかもしれないという仮説が、1525年に外交官ゲラシモフによって提唱された。しかしこれより前に、白海沿岸に移住したロシア人の開拓民や商人(ポモール)が、早くとも11世紀ごろから北極海沿岸の航路の一部を探検している。16世紀から17世紀にはアルハンゲリスクからエニセイ川河口に至る航路が確立された。北極海航路の先駆的存在であるこの航路は、東の終点に当たる交易地マンガゼヤの名を採ってマンガゼヤ航路(Mangazeya seaway)とよばれており、ポモール商人たちが短い夏の間にこの航路を往復してシベリアで採取される毛皮やセイウチの牙などを運び、アルハンゲリスクでノルウェーやイギリス、デンマークの商人たちに売った(ポモール貿易(英語版))。 一方、16世紀から17世紀には、ヨーロッパ北部諸国(イギリス、オランダ、デンマーク、ノルウェー)が相次いでロシア北方の海を探検した。当時、喜望峰回りやメキシコ経由など、インドや中国とヨーロッパを結ぶ海路はスペインとポルトガルが押さえていたため、後発の諸国は最短距離となるはずの北極海経由の仮説上の航路を見つけようとしていた。 当時の西欧の人々は、沈まない白夜の太陽が夏の数ヶ月間北極圏を照らし続けることにより、北極海の氷が溶け、西欧から北極点を通って太平洋の中国やモルッカ諸島へ直行できる海路が開くと信じていた。ロシア・シベリア北方の「北東航路」探検は、北アメリカ北方の「北西航路」探検に劣らず熱心に行われ、羅針盤や天測儀など航行用器具の発達がこれを後押しした。キタイ(北中国)の北沖を通ると考えられた北東航路沿岸にはキタイの文化の影響を受けた文明的な住民がおり、欧州の織物などの輸出先となるかもしれないという期待から、最初は北西航路よりも北東航路探索が有望とみなされた。北極海経由の太平洋への到達の試みは全て失敗に終わったが、この過程で北極海に浮かぶ島々が次々と発見された。 スペインやポルトガルより遅れてようやく絶対王権が安定期を迎えた16世紀半ばのイギリスでは、1551年にセバスチャン・カボット、ヒュー・ウィロビー(英語版)卿、リチャード・チャンセラー(英語版)がスカンジナビア沖を通りロシアへ至る貿易路や中国へ至る北東航路開拓を目指し「新しい土地への冒険商人会社」(Company of Merchant Adventurers to New Lands)を組織した。これは1555年、最初の勅許会社である「モスクワ会社」へと発展した。ヒュー・ウィロビー卿らは1553年に自らロシアへ向かう探検隊を組織して船出したが船団は嵐ではぐれ、ウィロビーの船はラップランドへ引き返すがそこで全員が凍死してしまい全滅した。副官チャンセラーの船は白海に逃げ込み、陸路と河川でモスクワへ向かった。チャンセラーらはツァーリ・イヴァン雷帝に謁見することができた<。チャンセラーは1555年再度ロシアへ航海し中国への航路を探るものの、1556年にイギリスへ戻る際に乗艦が難破し落命した。モスクワ会社はアルハンゲリスク経由のモスクワ国家との貿易を独占する傍ら、17世紀初頭にはヘンリー・ハドソンらを北極点やシベリア沖に向かわせた。しかし夏でも氷の漂う北極海に阻まれ、ノヴァヤゼムリャより先の航路を見つけることが困難と分かったため、以後は北西航路の探検に重点が置かれる。 特筆すべき北東航路探検は、オランダ人航海士ウィレム・バレンツによる1596年の航海である。彼らはノルウェーの北方沖でスヴァールバル諸島とビュルネイ島を発見し、ノヴァヤゼムリャの北端を回ってカラ海に入った。しかしノヴァヤゼムリャ北東岸の越冬地で船が氷に閉じ込められ脱出できず、一行は翌年夏に船を捨てボートで南に向かった。多くはロシア本土に辿り着き生還したものの、バレンツはノヴァヤゼムリャで落命した。バレンツのスピッツベルゲン島発見と、その周辺海域のクジラの大量生息の確認により、これ以後オランダとイギリスの船団による北極海での捕鯨競争が繰り広げられた。イギリス船団の主な運営者はモスクワ会社で、捕鯨船や私掠船などを北極海に送ってオランダ船から獲物を横取りする活動を繰り広げた。戦争一歩手前の激しい捕鯨競争は、1618年にスピッツベルゲンの分割と沿岸海域での捕鯨独占権の相互承認で一段落している。しかし1630年代後半にはスピッツベルゲンのクジラは枯渇しはじめ、以後の捕鯨の舞台は北極海から、グリーンランドなどの北大西洋へ移っていった。 ロシアはイギリスやオランダが北極海に進出してシベリアへ浸透し勢力を確立することを恐れ、1619年に死罪をもってマンガゼヤ航路の航行を禁じた。航路の閉鎖後ポモールの交易活動は停滞し、マンガゼヤの町も1662年の大火の後に放棄された。
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