ロシア化と反動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:14 UTC 版)
1989年のエストニア在住者の民族別割合 .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{} エストニア人 (61.5%) ロシア人 (30.3%) ウクライナ人 (3.1%) ベラルーシ人 (1.8%) フィンランド人 (1.1%) その他(2.2%) しかし、1940年にはバルト諸国占領によってエストニアはソビエト連邦へ併合(ロシア語版)され、その後独ソ戦を経てエストニア・ソビエト社会主義共和国に対するソ連支配は確立した。体制に反抗した多数のエストニア人が流刑などの犠牲となり、また多数のエストニア人が国外へ亡命した。その後にはエストニア語もエストニア文化(英語版)も学ぼうとしない大量のロシア人が流入し、人口の面でも文化の面でもエストニアの急速なロシア化が進行した。かつて人口の約90パーセントを占めたエストニア人人口は、ソ連支配の半世紀の間に61.5パーセントにまで減少した。 エストニア人がロシア人に対して極端な劣位に追い込まれる一方、1980年代末に始まったソビエト連邦の崩壊は、エストニア人をはじめソ連の各民族の民族運動を加速させた。エストニア人民族派の側はエストニアの独立回復に際し、ロシア人の市民権を制限して文化的地位も低下させることを求めた。対するロシア人の側は、ロシアとの経済関係を重視してロシア人にもエストニア人と対等の市民権と文化的地位を与えることを求めた。 1988年4月の創作家諸同盟合同総会 (et) ではエストニア・ソビエト社会主義共和国籍の新設が議論されたが、この時点では戦前のエストニア国籍との連続性は考慮されていなかった。その主眼はロシア共和国からの新来者の登録を抑制することに置かれ、すでにエストニア国内に居住する「移民」については議論の対処ではなかった。1990年3月の最高会議選挙に辛勝した人民戦線(ロシア語版)は、5月の第2回大会において、国籍問題について国際的に認められている解決策を採ると明言した。しかし、6月26日に最高会議が採択した「移民法」も、性質としては入国管理法に近いものに過ぎなかった。
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