ロシア古典様式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 19:53 UTC 版)
「東欧諸国のビザンティン建築」も参照 キエフ・ルーシのウラジーミル1世の治世時、キリスト教を国教としキエフ初の教会であるデシャチンナ教会が建設された(この時期、まだ国家としてのロシアはなく、この時期の建造物はしばしば「ルーシ建築」とも呼ばれる)。 15世紀後半からイヴァン3世のモスクワ大公国が勢力を増していった。また時を同じくして、オスマン帝国によりコンスタンティノープルの陥落が起こると、モスクワ大公国の歴代の君主のなかに「モスクワ=第三のローマ」とする第三ローマ論が意識されていった。つまりモスクワこそコンスタンティノープルの後継となるキリスト教・正教会の聖地であるとした考え方である。ロシア正教会の聖地、生神女就寝大聖堂(1158年~1189年、ウラジーミル)、赤の広場のポクローフスキー聖堂(1555年~1561年、モスクワ)などが生まれた。 17世紀にロマノフ朝が成立し、中央集権化が進むとロシア諸公国の各都市は要塞を兼ねた修道院が建築されるようになった。至聖三者聖セルギイ大修道院(15世紀、セールギエフスキー・パサード)、イパーチフスキー修道院(16世紀~19世紀、コストロマー)、スパソ=ブレオブラジェンスキー修道院(12世紀~19世紀、ヤロスラーヴリ)などである。
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