ロシア化期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 10:48 UTC 版)
19世紀後半には、ロシア帝国は中央集権的な科学政策を進め、天文学もプルコヴォ天文台に権限が集中し、タルトゥ天文台は地方の一天文台に過ぎない存在となる。併せてロシア化政策も進められ、ドイツ語で教育研究を行い、自治にこだわる大学への国費の投入は縮小し、タルトゥ天文台は更に厳しい状況となった。この頃、天文台では系統的な気象観測を始めたり、地震学に力を入れたりしており、気象台や重力観測所を兼ねた複合的な研究施設となっていった。天文台としても、若い天文学者が研鑽を積む場として機能し、オスカル・バックルンド、エルンスト・ハルトヴィッヒやルドヴィッヒ・シュトルーベらが研究を行っていた。 19世紀の終わり頃、ロシア化が果たされると共に大学の財政は上向き、天文台にも新たな観測装置が導入された。1897年にはレプソルト天頂望遠鏡が、1911年にはフラウンホーファー望遠鏡に替わる口径8インチのツァイス屈折望遠鏡が設置された。
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