ロシア内戦から解党まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:34 UTC 版)
「立憲民主党 (ロシア)」の記事における「ロシア内戦から解党まで」の解説
十月革命後のロシア内戦では、カデット党員は白軍へと参加し、ボリシェビキに激しく抵抗した。白軍のドゥトフ将軍に資金援助をした人物が、カデットの中央委員であったように、カデットは各地の反ソビエト勢力の支援者として重要な役割を果たした。 シベリアのオムスクでも、カデット党東方支部長の法学者ニコライ・ウストリャーロフ(英語版)がアレクサンドル・コルチャーク将軍の軍事独裁の正当化に協力し、反ボリシェヴィキ運動を行っている。ただし、後にウストリャーロフはカデットの一部の仲間とともにいわゆる「道標転換派(英語版)」を形成し、ロシアの国益を優先するという観点からソビエト政権容認の立場へと転じた。 党首ミリュコーフは十月革命直後にペトログラードを脱出し、将軍ミハイル・アレクセーエフの指揮下の白軍に加わった。その後、1918年5月にドイツ軍の支配下のキエフに移った。 キエフにはカデットの総委員会が設置されており、総委員会は親ドイツのスコロパードシクィイ政権に閣僚を派遣していた。こうしたなか、ミリュコーフはこれまでの連合国寄りの立場を捨て、ドイツ軍の力を借りて、ミハイル大公を皇帝とする立憲君主制の構築を目指すこととした。しかし、ドイツ軍との提携構想は白軍や党内からの反発を招き、ドイツ軍の敗北やボリシェビキによるミハイル大公の処刑のため、この計画は実現していない。 ミリュコーフはこの路線を撤回し、同年10月に北カフカスにある白軍の拠点エカテリノダールへと向かった。ここではカデットの地方党大会も開かれた。そして、カデットは同地の南ロシア軍のデニーキン将軍による軍事独裁の下でボリシェビキへの反撃を目指すこととなった。ミリュコーフやナボコフといった党幹部は同地の白軍政府の閣僚になる予定であり、カデット党員は連合国との外交も担当したという。しかし、デニーキンは赤軍に敗れた上、ウランゲリに軍の指揮権を引き渡してしまった。 白軍の敗北とともに党幹部たちは亡命を余儀なくされ、党中央委員はパリ、イスタンブール、ロンドンなど世界各地に分散した。こうしたなか、白軍の新たな指導者ウランゲリの評価をめぐって党内では対立が生じた。ストルーヴェはウランゲリの軍に協力し、連合国との交渉などを担当していた。イスタンブールに亡命した党グループなどもウランゲリを支持して武力反攻を目指していた。その一方で、ミリュコーフらのパリに亡命した党グループは、ウランゲリを反動的な人物であるとみなして批判したという。 そこで、ミリュコーフらは、社会革命党との連携を核とする左派的な「新戦術」を提唱した。しかし、この「新戦術」は党内の他グループから激しい反発を招いた。ミリュコーフの狙いは社会革命党の力を借りて、ロシア国内で農民を蜂起させてボリシェビキを打倒するというものだったという。一方、ナボコフらはこの戦術をまったく非現実的なものだとして批判した。1921年になると、ミリュコーフらが亡命地で発行したロシア語新聞『最新ニュース』とナボコフらのロシア語新聞『舵』が激しい論争を展開したが、この論争を通してミリュコーフは孤立を深めていった。同年7月、ミリュコーフが新たに「新戦術パリ・グループ」を結成したため、カデットは解党した。
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