ブレスト=リトフスク条約の締結
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「ウラジーミル・レーニン」の記事における「ブレスト=リトフスク条約の締結」の解説
権力を得たレーニンは、政権にとって緊急の課題は中央同盟国と講和を結び、第一次世界大戦から離脱することであると認識していた。レーニン政権は1917年11月の「平和に関する布告」の中でドイツおよびオーストリア=ハンガリーの両政府に対して3カ月の休戦を提案した。これを西部戦線に集中する好機と捉えたドイツ政府は前向きな反応を示し、12月には休戦協定の交渉がドイツ軍の東部戦線司令部が置かれるブレスト=リトフスクで始まり、トロツキーとアドリフ・ヨッフェによって率いられるロシア側代表団が到着した。間もなく1918年1月までの休戦協定は合意されたが、その後の和平交渉でドイツ側はポーランド、リトアニア、クールラントなど戦争中に獲得した領土の維持を要求し、ロシア側はその要求は民族自決権の侵害であると抗議した。この時期、ボリシェヴィキの一部は交渉を長引かせることでプロレタリア革命がヨーロッパ全域で巻き起こるまで時間を稼ぐことを望んでいた。一方で、ニコライ・ブハーリンのような強硬派のボリシェヴィキ指導者はドイツで革命を誘発する手段として戦争の継続を主張していた。1918年1月7日、トロツキーが中央同盟国からの最後通牒を携えてブレスト=リトフスクからサンクトペテルブルクに帰還し、ボリシェヴィキはドイツによる領土的要求の受諾か戦争の再開かの選択を迫られた。 1918年1月から2月にかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権の存続を確実にできるならば領土の喪失は容認可能であり、ドイツ側の要求を受け入れるべきであると主張した。大多数のボリシェヴィキはレーニンの提言を拒絶し、ドイツの脅しをはったりと見て休戦を引き延ばすことを望んだ。1918年2月18日、ドイツ軍はファウストシュラーク作戦を発動してロシアに攻勢を仕掛け、作戦初日にドヴィンスクを占領するなど支配領域を拡大した。この状況下、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央委員会の過半数を説得することに成功し、中央同盟国側の要求を受諾することが決定された。2月23日、中央同盟国は新たな最後通帳を発し、ポーランドとバルト三国に加えウクライナもドイツの支配領域となることを認めるか、ドイツ軍による本格的な侵攻に直面するかの選択をボリシェヴィキに迫った。 1918年3月3日、中央同盟国との講和条約であるブレスト=リトフスク条約が締結された。この条約の結果としてロシア側が失った領土は甚大であり、旧ロシア帝国の人口の26パーセント、農業収穫面積の37パーセント、産業の28パーセント、鉄・石炭の埋蔵量の4分の3がドイツ帝国に引き渡されることとなった。したがって、この条約はロシア国内のあらゆる政党に極めて不評であり、一部のボリシェヴィキは条約締結への抗議として人民委員会議を離脱した。また、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた左翼社会革命党(左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(ドイツ語版)暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ運動を起こした。 ブレスト=リトフスク条約の調印も中央同盟国の敗戦を防ぐには至らず、1918年11月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退陣し、新たに発足した新ドイツ政府は連合国と休戦協定を結んだ。これを受けて、ボリシェヴィキ政府(人民委員会議)はブレスト=リトフスク条約の無効を宣言した。
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