ブレスト教会会議に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 02:18 UTC 版)
「ブレスト合同」の記事における「ブレスト教会会議に至る経緯」の解説
1591年、総主教代理キリル・テルレツキー、リヴィウ主教ゲデオン・バラバンを含む4人の主教が、国王ジグムント3世に内密の書簡を送る。スラヴ語奉神礼を変更しないという条件で、ローマとの合同を受け入れる用意があると伝える内容。 1593年、ジグムント3世は大貴族の1人でブレストの城代であったアダム・ポティを、ヴォルイニのウラジーミル主教に東西教会合同運動の宣伝の担い手として指名。着座直後から、修道名イパーチイとなったポティは合同派としての宣伝活動を積極的に行う。 同年、俗人正教徒の中心的存在であるオストロジスキー公が、イパーチイ・ポティ主教に対して自己の立場を明らかにする長文の書簡を送る。教会合同は進んで受け入れるが、それはルーシにとどまらない、全東方世界の正教会の合意によって成立したものでなければならないとする内容であった。これはイパーチイ主教をはじめとする合同派には受け入れられるものではなく、却って合同派の行動を早める結果をもたらした。 1594年5月、総主教代理キリル・テルレツキーは、国王が自身とイパーチイ主教をローマに派遣することを布告。同年12月、キリルとイパーチイは教会合同の支持宣言を作成しこれに署名。加えてキエフ府主教ミハイル、ポロツク主教、ピンスク主教、ホルム主教の署名が得られる。 1595年1月、リヴィウ主教ゲデオンが教区の聖職者を招集して会議を開き、合同の受け入れを決議。 1595年6月1日、キエフ府主教ミハイル、主教イパーチイ、主教ルツクが「合同規約」の草案に署名。規約草案でローマ教皇に対し要求されたのは、ウクライナの当該教会の独立的地位と、伝統的スラヴ語奉神礼の完全維持、および教会財産の保全と、合同教会の府主教・主教が元老院に議席を与えられることであった。 同年6月24日、オストロジスキー公が、教会合同への抗議をポーランドとリトアニアとウクライナの全正教徒に対し呼びかける。 同年7月1日、リヴィウ主教ゲデオンが、合同に同意した事が一度も無い旨の発表を行い、一転して合同派と袂を分かつ。 同年7月13日、ヴィリニュスの正教徒都市民が教会合同に抗議。ヴィリニュス兄弟団学校の主任教師であるジザニが合同に反対するロシア語パンレットを執筆。府主教ミハイルにより破門されたジザニは、ミハイルは正教会を棄てたので正教徒に対する権威を有しないと宣言した。ジザニは投獄されるが、脱獄に成功。 同年9月24日、ジグムント3世がウクライナの正教会とローマ教会の合同を宣言。 同年12月23日、ローマ教皇クレメンス8世に謁見した総主教代理キリルと主教イパーチイは、教皇より祝福を与えられる。「合同規約」改訂。 1596年5月ないし6月、国王は、府主教ミハイルが教会合同会議をブレストで召集することを承認。 同年8月、府主教が教会会議を10月8日に開催する旨発表。
※この「ブレスト教会会議に至る経緯」の解説は、「ブレスト合同」の解説の一部です。
「ブレスト教会会議に至る経緯」を含む「ブレスト合同」の記事については、「ブレスト合同」の概要を参照ください。
- ブレスト教会会議に至る経緯のページへのリンク