ブレスト合同とキエフ神学校
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「ブレスト合同とキエフ神学校」の解説
「ブレスト合同」も参照 17世紀前半まで、キエフを含むウクライナ西岸はポーランド・リトアニア共和国の勢力下にあった。すなわちカトリック教会の影響下にあったことになる。同じ時期、カトリック教会にはプロテスタントに対抗する対抗宗教改革が起きており、世俗権力からもローマカトリック教会からも、ウクライナにおける教会をローマ教皇の下に帰属させようとする活発な動きが生じた。1596年にはブレスト合同によりウクライナ東方カトリック教会が成立。現在も存続する、東方典礼を保持しつつローマ教皇の教皇首位権を認める教会である東方典礼カトリック教会のうち最大級の教会がウクライナに誕生した。 これによって、ウクライナに関わるコンスタンティノープル総主教庁の庇護下にあった正教会指導者に生じた潮流は、大きく分けて二つある。一つはキリロス・ルカリス(キリル・ルカリス)(1572年-1638年)にみられる、反ローマカトリック感情からプロテスタントの影響を受け入れる傾向。いま一つはキエフ府主教ペトロー・モヒラにみられる、ローマカトリックに対抗するためにラテン神学を用いようとする傾向である。しかし両派ともに西欧の神学的な影響を全否定するものではなかった。寧ろ「全否定できなかった」という方が正しい。その要因はさまざまなものがあるが、一つの理由として当時、独自の正教会の学問機関がほぼ皆無であったことが挙げられる。オスマン帝国では正教会の教育機関維持は許されず、高位聖職者となる人々はイタリアに行ってラテン語で神学教育を受けるしか高度な教育を受ける方法がなかった。 この時代、聖師父に則った正教会の正統的信仰をまだしも汲むものとして評価されているのは1672年のエルサレム総主教ドシセオス2世による信仰告白書であるが、ドシセオスは独学で聖師父学を学んでいた人物であった。より正教会の伝統的な信仰を明らかにする著作としては、後代アトス山のフィロカリアを待たねばならないとされる。 キエフ府主教ペトロー・モヒラはカトリック国のポーランド・リトアニア共和国の支配下にあって圧倒的ハンディを抱えつつも、1632年、キエフ神学校を設立する。正教会の神品達にラテン的素養を具えさせ、以てカトリックに対抗しようという狙いがあったこの学校の声望はすぐに高まった。しかしながら当然このようなラテン系の術語等を正教に導入する試みは、いかに正教を護るためという善意から出たものであっても、正教会内の伝統を重んじる者達から反発を買うのは自然な流れであった。 ウクライナが1654年に大幅な自治権の保証つきでロシアのツァーリの宗主権を認めポーランド・リトアニア共和国の支配から脱出したことで、ロシアと西ウクライナの物流と人の交流は活発化していく。それはモスクワを中心とするロシア正教会に西欧化の波が押し寄せて来ることをも意味した。
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