ブレスト合同とキエフ神学校とは? わかりやすく解説

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ブレスト合同とキエフ神学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)

ロシア正教会の歴史」の記事における「ブレスト合同とキエフ神学校」の解説

ブレスト合同」も参照 17世紀前半まで、キエフを含むウクライナ西岸ポーランド・リトアニア共和国勢力にあった。すなわちカトリック教会影響にあったことになる。同じ時期カトリック教会にはプロテスタント対抗する対抗宗教改革起きており、世俗権力からもローマカトリック教会からも、ウクライナにおける教会ローマ教皇の下に帰属させようとする活発な動き生じた1596年にはブレスト合同によりウクライナ東方カトリック教会成立。現在も存続する東方典礼保持しつつローマ教皇教皇首位権認め教会である東方典礼カトリック教会のうち最大級教会ウクライナ誕生した。 これによって、ウクライナ関わるコンスタンティノープル総主教庁庇護にあった正教会指導者に生じた潮流は、大きく分けて二つある。一つキリロス・ルカリスキリル・ルカリス)(1572年-1638年)にみられる、反ローマカトリック感情からプロテスタント影響受け入れ傾向。いま一つキエフ府主教ペトロー・モヒラみられるローマカトリック対抗するためにラテン神学用いようとする傾向である。しかし両派ともに西欧神学的な影響全否定するものではなかった。寧ろ全否定できなかった」という方が正しい。その要因さまざまなものがあるが、一つ理由として当時、独自の正教会学問機関がほぼ皆無であったことが挙げられるオスマン帝国では正教会教育機関維持許されず、高位聖職者となる人々イタリア行ってラテン語神学教育を受けるしか高度な教育を受ける方法がなかった。 この時代聖師父則った正教会正統的信仰まだしも汲むものとして評価されているのは1672年エルサレム総主教ドシセオス2世による信仰告白書であるが、ドシセオス独学聖師父学学んでいた人物であった。より正教会伝統的な信仰明らかにする著作としては、後代アトス山フィロカリアを待たねばならないとされるキエフ府主教ペトロー・モヒラカトリック国のポーランド・リトアニア共和国支配下にあって圧倒的ハンディ抱えつつも、1632年キエフ神学校設立する正教会神品達にラテン素養具えさせ、以てカトリック対抗しようという狙いがあったこの学校声望はすぐに高まったしかしながら当然このようなラテン系術語等を正教導入する試みは、いかに正教護るためという善意から出たものであっても正教会内の伝統重んじる者達から反発を買うのは自然な流れであったウクライナ1654年大幅な自治権保証つきロシアのツァーリ宗主権認めポーランド・リトアニア共和国支配から脱出したことで、ロシア西ウクライナ物流と人の交流活発化していく。それはモスクワ中心とするロシア正教会西欧化の波が押し寄せて来ることをも意味した

※この「ブレスト合同とキエフ神学校」の解説は、「ロシア正教会の歴史」の解説の一部です。
「ブレスト合同とキエフ神学校」を含む「ロシア正教会の歴史」の記事については、「ロシア正教会の歴史」の概要を参照ください。

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