ロマノフ朝時代
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「アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)」の記事における「ロマノフ朝時代」の解説
1866年にトビリシで生まれ、幼少の頃から「サンドロ」の愛称で呼ばれていた。成長したアレクサンドルはロシア帝国海軍に入隊し、1885年に士官候補生として海軍大学校を卒業後は大日本帝国・ブラジル帝国を親善訪問した。 1894年に従兄であるアレクサンドル3世の長女クセニア・アレクサンドロヴナと結婚し、7人の子女をもうけた。これにより、アレクサンドルはニコライ2世の義理の兄弟となり、彼の私的な補佐役の地位を獲得した。アレクサンドルの批判を含む助言はニコライ2世に大きな影響を与えていた。アレクサンドルの回顧録によると、ニコライ2世への影響力を巡りアレクサンドラ皇后と争っており、彼が信じる「ロシア国内で反ユダヤ主義が蔓延している」という見解をニコライ2世に共有させようとしていたという。 1895年には太平洋艦隊の強化に乗り出し、翌年に海軍士官学校教官となり戦術理論を担当した。1901年から1902年にかけて、黒海艦隊の戦艦ロスチスラフ艦長を務め、1903年に黒海艦隊下級艦隊司令官に任命される。日露戦争の際には武装商船船団の指揮官を務め、戦後は海軍参謀本部の創設に尽力し、艦隊の再編成や新型戦艦の建造を熱心に主張した。この間、自身の発議により、貿易航海・港湾総局が創設され総局長を務めた他、1904年には義捐金による艦隊強化特別委員会委員長に就任した。これらの職務を通して、長距離輸送用ラインの作成と商船の航海訓練、港の新設に貢献した。1909年に中将に昇進した。アレクサンドルは航空戦力の充実にも力を注ぎ、1910年にセヴァストポリ郊外に航空隊士官学校を創設した。第一次世界大戦勃発後はロシア帝国航空隊(英語版)司令官を務め、1916年12月には空軍総監に就任した。
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ロマノフ朝時代
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「フィンランド正教会」の記事における「ロマノフ朝時代」の解説
1721年にカレリアの大半がロシア帝国に領有され、1809年には全フィンランドがロシア帝国領となったことにより、18世紀・19世紀を通じてカレリアの正教会も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会のもとに入った。 19世紀末に入ると、ナショナリズムがカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義に対応するものであり、カレリア人・フィンランド人は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語に代えてフィンランド語を奉神礼の言語として採用し、奉神礼における祈祷書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年にはフィンランド教区が設立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。
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ロマノフ朝時代
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「ロマノフ朝時代」の解説
17世紀以降、1917年のロシア革命まではロマノフ朝の時代である。この時代、ロシア正教会は国家の保護に入り特権的立場を得ると同時に、ツァーリの強力な統制下に置かれた。西欧的な国家改革を目指すツァーリ主導の下でロシア正教会の西欧化が進められていったのもこの時代であるとまとめられる。正教会の西欧化の是非はロシア・ウクライナ地域に限らず、この時代の全正教会にとって最大の問題であり続けた。 ただし、ツァーリの強力な統制も西欧化についても、一様な進行プロセスを辿ったわけではない。そしてその生み出された結果についてのステレオタイプな見解「体制従属的なロシア正教会」「他の正教会に比べて西欧的なロシア正教会」についても、それほど単純なものではない。まずロマノフ朝の出発点は、非常に非力なツァーリから始まっていたことには留意すべきであろう。その正教会との関わりの経緯、その終結点についてはさまざまな見解が存在し、これも同じく単純なものではない。ツァーリの統制が完成するまでのプロセスを、主に以下の点を順に追っていくことで概観するが、あくまで概要でしかないことに注意されたい。 総主教フィラレートによる統治:世俗権力と教会勢力の不均衡 総主教ニーコンによる改革の顛末とその背景ロマノフ朝がウクライナ西岸を勢力下に置いたことによる西欧化の影響:ブレスト合同とキエフ神学校 伝統を重視する姿勢の二分:古儀式派の発生
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