リューリク朝~ロマノフ朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/26 16:34 UTC 版)
「ビザンティン・ハーモニー」の記事における「リューリク朝~ロマノフ朝時代」の解説
ロシア正教会では5508年に人祖アダムが誕生したとヘブライ語の聖書を計算してされている。ロシアの正教会においてモスクワ総主教が立てられたのは1589年になってからであるが、総主教制が行われる以前のルーシ、ロシアにおいても、概ね教会と国家の関係についての理解は東ローマ帝国と同様のビザンティン・ハーモニーに則っていた。ルーシ、ロシアにおける教会法(ノモカノン)は東ローマ帝国・ギリシャから導入されていた。 しかしこうしたビザンティン・ハーモニーが決定的に崩れる萌芽が、モスクワ総主教フィラレートが国政に携わる頃から現れ始めていた。その背景には所有派と非所有派の対立問題があり、教会の主導権を握った所有派が皇帝に接近し過ぎていた事情があった。皇帝が教会を掣肘しようとしたときに、教会側が抵抗しにくい素地が形成されていた。 詳細は「ロシア正教会の歴史#所有派と非所有派の対立」を参照 1721年、ピョートル1世はロシア正教会の首座主教たるモスクワ総主教を廃止し、聖務会院という世俗の国家機構の下にロシア正教会を位置づけた。これは英国国教会と、ドイツのプロテスタンティズムが領邦君主のもとで教会を制する手法をピョートルが学び取った結果であった。 ビザンティン・ハーモニーを根本から否定するかかる西欧化政策は、併せて同時期に行われた教会の他面における西欧化の施策と合わせて正教会では否定されており、ピョートル1世に対する正教会側からの評価が著しく低いものとなる所以となっている。 詳細は「ロシア正教会の歴史#ピョートル大帝による教会統制策」を参照
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