リューリク朝のラドガ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 09:49 UTC 版)
「スタラヤ・ラドガ」の記事における「リューリク朝のラドガ」の解説
コストロマの修道院から発見された『原初年代記』(ルーシの歴史書)のイパーチー写本(Hypatian Codex)によれば、ヴァリャーグの伝説の王リューリクは862年にラドガに至りここを自分の都と定めた。リューリクの後継者たちはその後ノヴゴロドへ、さらにキエフへ移り、強大なキエフ・ルーシの礎を築いた。ラドガの周囲には巨大なクルガン(王族の古墳)がいくつか現存するが、そのうち一つはリューリクの陵墓であるとされている。他にリューリクの後継者オレグのものとされるクルガンもある。『ヘイムスクリングラ』をはじめとするノース人の文献には、990年代後半にノルウェーのエイリーク・ハーコナルソンがラドガ湖を襲いラドガの街に火をかけたことが記されている。 ラドガが次に年代記に現れるのは1019年、スウェーデン王オーロフの娘インギゲルド・オロフスドッテル(Ingigerd Olofsdotter)がノヴゴロド公ヤロスラフ1世と結婚したときで、その結婚の条件としてヤロスラフは妻にラドガを譲り、妻は父親のいとこのスウェーデン貴族ランヴァルド・ウルフソーン(Ragnvald Ulfsson)をその支配者に任じた。この話は北欧側のサガでも確認されているほか、ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認できる。少なくとも二人のスウェーデン王(ステンキルとインゲ1世)が青少年期をラドガで過ごしている。 12世紀と13世紀の年代記では、ラドガは強大なノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和国)の所有する、交易のための死活的に重要な前哨地であったことがわかる。ノヴゴロドは五つの塔といくつかの教会のある要塞を建てた。この要塞は15世紀末から16世紀初めにかけて再建されているが、聖ゲオルギイ教会と生神女就寝教会はもとの場所に当時の栄光に満ちた姿を残して建っている。特に聖ゲオルギイ教会の内部には12世紀の素晴らしいフレスコの壁画が残っている。
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