ロマノフ朝への不満の高まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 15:17 UTC 版)
「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の記事における「ロマノフ朝への不満の高まり」の解説
ミハイルはヤルタから妹クセニアに、ニコライ2世へ以下の警告文を託している。 私は、私たちの周りで何が起きているのかを憂慮しています。最も忠実な人々の間で驚くべき変化が起きています……この不安は陛下の、そして私たち家族の運命について考えさせます。人々の不満の原因となる者は政府を形成する一部の者、そして陛下の近くまで迫っています。この憎悪は、既に公然と表現されています。 ミハイルはアレクサンドル大公、ニコライ大公、ゲオルギー大公、ドミトリー大公、エリザヴェータ大公妃ら皇族たちと同様に、人々の不満の原因はドイツ出身のアレクサンドラを洗脳して国政を動かすグリゴリー・ラスプーチンにあると考えていた。ミハイルたちはラスプーチンの排除を訴えるが、皇帝夫妻は聞く耳を持たず、ラスプーチンは1916年12月にフェリックス・ユスポフとドミトリー大公によって暗殺された。ミハイルは家族と過ごしていた時にラスプーチン暗殺の報告を受けた。フランス大使によると、12月28日にはアレクサンドラ暗殺に失敗した者が逮捕され、翌日絞首刑に処されたという。ニコライ2世はドゥーマとの対決姿勢を強め、人々は皇帝夫妻の醜聞を流すことを止めようとしなかった。 1917年1月にミハイルは前線に復帰し、同月29日には騎兵総監に任命されガッチナに駐留した。この頃、アレクセイ・ブルシーロフが「即時かつ抜本的な部隊の改革」をニコライ2世に求めるようにミハイルに請願したが、「私は既に皇帝への影響力を持ってはいない」と返答している。
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