ラスプーチン暗殺
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「ドミトリー・パヴロヴィチ」の記事における「ラスプーチン暗殺」の解説
1914年、第一次世界大戦が勃発し、ロシアは連合国として参戦した。しかし、戦争の長期化により国民の間にはロマノフ朝への不満が募り、その矛先は敵国ドイツ帝国出身のアレクサンドラ皇后と、彼女の側近として国政に介入するグリゴリー・ラスプーチンに集中した。フェリックス・ユスポフはロマノフ朝の権威を回復するためラスプーチンの暗殺を計画し、友人であるドミトリーも嬉々として計画に参加した。ユスポフはラスプーチンを油断させるため、治療の名目で数か月間ラスプーチンの元に通い、信頼関係を築いた。 暗殺決行の数日前、ユスポフは美貌の妻として評判だったイリナ・アレクサンドロヴナに引き合わせることをほのめかして、ラスプーチンを自宅のモイカ宮殿に招待した。しかし、この頃イリナは両親と共にクリミアに滞在していた。1916年12月30日(ユリウス暦12月17日)、ユスポフはモイカ宮殿にラスプーチンを招待し、防音設備が施された地下室に通した。上階には暗殺メンバーのドミトリー、ウラジーミル・プリシケヴィチ(英語版)、セルゲイ・スホーチン、スタニスラフ・デ・ラゾヴェルトが待機していた。 ラスプーチンの暗殺後、ユスポフたちはラスプーチンの生存を偽装するための工作を行い、ドミトリーはプリシケヴィチとラスプーチンの衣服を身に付けたスホーチンを連れて車に乗りモイカ宮殿を後にした。ドミトリーたちはラスプーチンの衣服をプリシケヴィチの屋敷で焼却しようとしたが、プリシケヴィチの妻に拒否されたため、そのままモイカ宮殿に戻った。その後、ドミトリーたちはラスプーチンの遺体をペトロフスキー橋(英語版)からネヴァ川に投げ捨てたが、遺体に重りを付けるのを忘れた挙句、彼の雨靴やコートが橋に落ちていることに気付かずに現場を離れた。
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ラスプーチン暗殺
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「フェリックス・ユスポフ」の記事における「ラスプーチン暗殺」の解説
ユスポフは自伝の中で、グリゴリー・ラスプーチンを暗殺するために彼の信頼を得ようと計画し、病気の治癒を理由にラスプーチンに近付き信頼関係を築いたという。その間、ユスポフは弁護士のワシーリー・マクラコフ(英語版)と接触し助言を得て、連隊将校で友人のセルゲイ・ミハイロヴィチ・スホーチン大尉を同志に引き入れた。また、親友で愛人であったといわれるドミトリー大公も嬉々として暗殺計画に参加したという。 12月30日、ユスポフはドミトリー、スホーチン、ウラジーミル・プリシケヴィチ(英語版)、スタニスラフ・デ・ラゾヴェルトと共にモイカ宮殿でラスプーチンを暗殺した。暗殺場所には防音設備が施された地下室が選ばれた。ラスプーチンは心臓・肺を銃で撃たれた後、逃げたユスポフを追って中庭に向い、そこでプリシケヴィチに腎臓を撃たれるが、それでも死ななかったためユスポフに激しく殴打された。雪の上に倒れ込んだラスプーチンは額を撃たれてようやく死亡したが、額を撃った人物が誰なのかは特定されていない。遺体はペトロフスキー橋(英語版)からネヴァ川に投げ捨てられた。 事件の報告を受けたアレクサンドラ皇后は直ちに捜査を命じ、警察はモイカ宮殿前で血痕を発見した。ユスポフは「飼い犬がドミトリーに撃たれた」と弁明したが、アレクサンドラはユスポフとドミトリーをセルゲイ宮殿(英語版)に軟禁した。二人は弁明のために手紙を書こうとしたが、アレクサンドラは手紙の受け取りを拒否した。アレクサンドラは直ちに二人を処刑しようとしたが最終的に思い留まり、ニコライ2世の命令でユスポフは自領ベルゴロドに、ドミトリーは前線勤務の形でイランに追放された。
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