通説への疑問
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「グリゴリー・ラスプーチン」の記事における「通説への疑問」の解説
上述のようにラスプーチン暗殺に関する捜査資料の大半は現存しておらず、現在伝わっている暗殺の詳細は二月革命・十月革命を生き残ったユスポフ、ドミトリー大公、プリシケヴィチの回顧録や証言に基いている。しかし、ユスポフは過去数回に渡り証言を変えており、1917年以来暗殺の動機を「愛国心に突き動かされた」としていたが、晩年の1965年には「ラスプーチンの漁色家振りを嫌悪しての暗殺だった」と主張するなど、信憑性について疑問が残る。 また、暗殺当日のラスプーチンの衣服の色や負傷箇所、使用した武器の種類、遺体の処理に車を使用したかどうかなどの詳細についても、それぞれ証言が食い違っている。プリシケヴィチは「至近距離からラスプーチンの後頭部を撃った」と証言しているが、検死結果ではラスプーチンが後頭部を撃たれた形跡は確認されなかった。さらに、ラスプーチンは額を撃たれていたが、暗殺時に拳銃を発砲したユスポフとプリシケヴィチの二人とも額の銃撃について言及しておらず、使用された拳銃の口径すら分かっていない。
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通説への疑問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:47 UTC 版)
徳姫との不仲は松平家忠の『家忠日記』によると事実のようであるが、不仲や不行状というだけで信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問がある。また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていてそのような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は窺えないし、事件の発端となったとされる徳姫に対して徳川政権成立後に家康が二千石の領地を与えている理由も通説では説明できない(実際に所領を給与したのは徳姫の義弟にあたる松平忠吉)。さらに築山殿がいかに家康の正室といえども武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問である。しかも信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。それにも関わらず家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解である。また酒井忠次は、その後も徳川家の重臣上位の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっている。 また、家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○○の中なおしニ」と破損しており、信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠、久松俊勝、松平康元)であるとの説も提示されている。また「御母様(=築山殿)」の可能性もあるし、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もある。於大に関しては天正3年(1575年)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、信康との仲が険悪になっていた可能性がある。ちなみに数正は後年に徳川家から出奔している(橋場日月の説)。(なお御の前には信康の名が来るため御家門と御前様の説には無理がある) なお、家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていないとする説があるが、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立し信康の菩提寺に指定し、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などを建設しており、「信康山長安院清瀧寺」と号させている。また各所に墓所を建立しているので、これは誤りである(#墓所・祭祀も参照)。
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