通説による合戦の発端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)
「吉田郡山城の戦い」の記事における「通説による合戦の発端」の解説
尼子氏からの離反を明確にした元就に対して怒る詮久は、天文8年(1539年)11月に月山富田城(島根県安来市)に家臣を集めて評定を開き、毛利氏討伐を決めたとされる。経久の弟(詮久の大叔父)である尼子久幸は備後・石見両国がまだ征服されておらず深く敵地に入るのは危険で、両国の国人領主達から人質をとってから実行するべきと慎重論を述べたが、血気盛んな詮久は「臆病野州」と蔑んだとされる。隠居していたために評定には参加していなかった経久も、久幸と同じように慎重さを求めたが、詮久は聞く耳を持たなかった。こうして、毛利打倒を掲げた尼子軍の安芸侵攻が行われることとなった。
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