通説への批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 22:10 UTC 版)
アレッサンドロ・パーチェによれば、通説による区別、すなわち、「硬性憲法は、軟性憲法と異なり、それが改正されるためには特別な改正手続を必要とする」という区別は、ダイシーがブライスの思考を誤解した結果である。パーチェによれば、ダイシーは1814年のフランスの憲章等を軟性憲法としているが、その公布のために血が流されたこと等を考慮すれば誤りである。ダイシーは、オルレアン朝では、憲章の中に立法権の限界を定めた文言はなく、ゆえにイギリスと同じく議会が主権を持っていたことがイギリス人男性には明らかであるとした。パーチェによれば、これはダイシーの中のイギリス・イデオロギー文脈に起因する誤りである。 石澤によれば、改正手続きのみでの区別が通説となった原因は、ダイシー自身がブライスの論述を誤解したためではないとされる。 浅井清によれば、改正手続きの規定によって軟性憲法と硬性憲法とに分類されるがごとく、普通には理解されているが、それは極めて皮相的な解釈であり、ブライスの学説の真意はそれ以外の点(軟性憲法の弾力性等)にある、とされる。
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