通説の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 06:47 UTC 版)
人類学者のエリザベス・トゥッカーは、新国家アメリカと異なった原理でイロコイの政治システムが構築されていたと説明する。合衆国憲法で採用された連邦制度と比べて、イロコイ連邦の連合方式は中央集権的要素が見られないものだった。50人の首長たちは選挙で選ばれるのではなくクラン・マザー(氏族の母)たちの推挙で決められ、首長数の連合参加各国への割り当ては連合のしきたりとしてある各国へ付けられた序列に則っていた。 詳細は「アメリカ法#歴史」および「イロコイ連邦#統治」を参照 13植民地入植者社会には、インディアンの言語に対する理解が不十分なうちから民主的制度が見られる。法制史学者のジャック・N・レイコウブは、ニューイングランド地方におけるタウンミーティングの民主的自治や、新大陸初の議会とされるバージニア議会(英語版)(1619年開設)を例示している。さらに連邦主義的制度は、イロコイとの接触以前から見られる。政治学者のサミュエル・B・ペインは、ニューイングランド連合(1643年 - 1684年)の「連合規約」と呼ばれる近世の憲法の例を挙げている。この連合について、連合参加各植民地の対内主権は連合の力や主権と協同しており、連合体として実際に機能していたと説明する。1744年の「連合を形成すべきとの“忠告”」、イロコイ族にニューイングランド入植者が接触する1677年、それらの30年以上前に、イギリス人入植者が連合という仕組みに慣れていたことをペインは指摘している。 アメリカ独立革命以前と以後の重要な政治的概念の全ては、ヨーロッパの前例を明らかに参照していた。参政権の平等主義について、レイコウブはこう指摘する。結局のところ17世紀のイギリス社会に端緒があり、特にイングランド内戦およびイングランド共和国の時代とその時代に生じた出来事、貴族院および君主制の廃止、パトニー討論や平等派といった急進的な政治感情とその実践に関係があった。 信教の自由の成立過程と背景については「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」を参照 アメリカ合衆国の建国者(建国の父)たちは、ヨーロッパの事例を参考としたことを明らかにしている。 ジェームズ・マディソン(「合衆国憲法の父」)は、バージニア会議での合衆国憲法批准に際しての演説でネーデルラント連邦共和国とスイス連邦を挙げて称賛していた。憲法批准を訴えた論文集『ザ・フェデラリスト』の18編 - 20編でもイロコイについて触れておらず、マディソンは前記2国とアカイア同盟(古代ギリシア)、ポーランド、神聖ローマ帝国について書いていた。 ジョン・アダムズ(のちの第2代大統領)は、1787年の『アメリカ諸邦憲法擁護論』全3巻で古代のギリシア人から近代のイングランド人までの歴史上存在した国制を挙げて詳細に分析した。また、本書でインディアンを参照事例として挙げたのは全3巻中6つのみであると、アメリカ歴史考古学者のフィリップ・レビーは指摘している。 外交上の目的 S・B・ペインは1744年の「連合を形成すべきとの“忠告”」について、単にフランスとの戦いにおいてイギリスと同盟関係にあったイロコイが、イギリス領の北米植民地を自身の強力な同盟者にする目的で行った助言と解釈すべきだとする。大陸会議の時期にアメリカ側がイロコイ側との接触を求めた理由についても、対英独立戦争への協力を求める外交上の都合によるものでイロコイの政治システムに対する尊敬からではなかったとし、この時にあえて1744年の助言を役立つものと見なす理由がなかったと指摘している。
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