通説に対する批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 14:05 UTC 版)
ところが、蕭何が九章律を定めたとする話は、『漢書』以前の史料・文献には登場しない(『史記』の蕭相国世家(第23)には蕭何が漢の法律制度を整備したことは記述されているが、具体的な内容は無い)。しかも、『漢書』の著者班固とほぼ同時代に生きた王充が著した『論衡』謝短篇では全く反対に蕭何が律経(九章律)を編纂したことを否定する記事を載せている。王充はまず、九章が皋陶の作であるとする説を否定し、続いて蕭何の作であるとする説を否定している。王充が特に注目したのは、九章に肉刑に関する記述が無い点である。漢王朝で肉刑が廃止されたのは蕭何の死から26年後の文帝期に発生した太倉公の一件(紀元前167年)に伴う措置であり、蕭何が定めたものであれば肉刑に関する記述がある筈なのにそれがないと指摘している。更に前述の問答から、後漢の前期には既に九章律の作者については諸説があったことが判明する。そして、実際に張家山漢簡から発見された蕭何の死(紀元前193年)から7年後(紀元前186年)に作成された法令集とされる『二年律令』には、興・厩以外の7篇に相当する竹簡は発見されているもののその配列や構成は九章律のものと伝わるものとは大きく異なり、罰則の中に各種の肉刑も明記されている。このため、少なくても蕭何が漢の法制を整備したのは事実であったとしても、それは九章律とは全く異なるものであり、九章律として知られていたものは文帝以後の前漢におけるある時期の法律を反映したものと考えられている。 近年では、陶安あんどや廣瀬薫雄が漢代における法典の存在を否定する見解を出し、蕭何作の九章律の存在を否定している。勿論、これは九章律そのものの存在を否定したものではない。廣瀬は漢代の「律」を後世の律令法のような刑法典ではなく、漢代の個々の役人が職務上の便宜から皇帝が出した個々の令(=詔)のうち、法的規範として有効な部分のみを抜き出した物を指し、更に必要に応じて整理や分類も行われたとする。九章律も当初は前漢の役人が令から律を抜き出して整理した私撰の法令集であったが、その後広く官界で一種のマニュアルとして用いられるようになり、更に儒教の経学の影響を受けて学術的に体系化され、九章律も一種の経書として扱われるようになり「律経」と呼ばれるようになったとする。九章律の経書化について、廣瀬は『漢書』芸文志において、その出典とされている前漢末期の劉向父子の『七略』の影響を受けて「九章律」あるいは「律経」と呼ばれる書物が採録されていないことに注目して、前漢末期から後漢初期にこうした作業が行われ、班固や王充が活躍していた章帝期には公式な法令集として社会に受け入れられ、蕭何を著者とする説が登場するようになったとしている。
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