通説による離別説と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 21:54 UTC 版)
「黄梅院 (北条氏政正室)」の記事における「通説による離別説と死」の解説
しかし、永禄11年(1568年)12月13日、父の信玄の駿河侵攻により三国同盟は破綻する(兄・義信はこの過程で信玄に廃嫡される)。 信玄の駿河侵攻に激怒した氏康は黄梅院を甲斐に送り返した。その際、氏政からは堪忍分として16貫文余を与えられている。 夫・氏政と離縁し、しばらくは鬱々とした日々を送っていたと思われるが、甲府の大泉寺住職の安之玄穏を導師に、出家したとも言われる。 そして永禄12年6月17日、27歳で死去した。 信玄は薄幸な長女のために、巨摩郡竜地(甲斐市龍地)に菩提寺黄梅院を建立し葬り、墓碑が現存している。それから信玄は、元亀元年(1570年)の12月20日に、妻の三条の方と娘の黄梅院両方の回向を行い、同年12月1日付で大泉寺に黄梅院領として南湖郷(南アルプス市)を寄進する判物を発給している。夫の氏政は武田氏と再び同盟した後の、元亀2年(1571年)12月27日に、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔った。
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