暗殺当日とは? わかりやすく解説

暗殺当日

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 00:45 UTC 版)

紀尾井坂の変」の記事における「暗殺当日」の解説

5月14日早朝大久保福島県山吉盛典帰県挨拶受けている。その話は2時間近くにおよび、山吉が辞去しようとしたときに大久保三十計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期分け最初10年創業時期として戊辰戦争士族反乱などの兵事費やした時期次の10年内治整理殖産興業時期最後10年後継者による守成時期として、自らは第2期まで力を注ぎたい抱負述べた午前8時ごろ、大久保麹町区三年町裏霞ヶ関自邸出発した明治天皇謁見するため、2頭立て馬車赤坂皇居向かった同行していたのは御者中村太郎従者の芳であった。ところが、午前8時30分ごろに紀尾井町清水谷現在の参議院清水谷議員宿舎前)において暗殺犯6名が大久保乗る馬車襲撃した。まず芳襲われるが、なんとか逃亡し近く北白川宮邸に助け求めた日本刀馬の足切った後、馬車から飛び降りて立ち向かった丸腰中村太郎刺殺した。馬車の中で書類目を通していた大久保異変に気付き馬車から出ようとしたが、島田らは両方の扉を塞ぎ大久保馬車から引きずり降ろした大久保島田に対して無礼者」と一喝したが、護身のための武装をしていなかったことが仇となり、なす術もなく殺害された(享年49数え年〉、満47歳没)。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで達していた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保全身16箇所の傷を受けており、そのうち半数にあたる8箇所頭部対するものであった事件直後駆けつけ大久保遺体見た前島密が「肉飛び砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。 島田らは刀を捨て大久保一礼をして撤収し同日大久保の罪五事と他の政府高官木戸孝允岩倉具視大隈重信伊藤博文黒田清隆川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首した

※この「暗殺当日」の解説は、「紀尾井坂の変」の解説の一部です。
「暗殺当日」を含む「紀尾井坂の変」の記事については、「紀尾井坂の変」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「暗殺当日」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「暗殺当日」の関連用語

暗殺当日のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



暗殺当日のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの紀尾井坂の変 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS