暗殺当日
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5月14日早朝、大久保は福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。その話は2時間近くにおよび、山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた。 午前8時ごろ、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発した。明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かった。同行していたのは御者の中村太郎と従者の芳松であった。ところが、午前8時30分ごろに紀尾井町清水谷(現在の参議院清水谷議員宿舎前)において暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃した。まず芳松が襲われるが、なんとか逃亡し、近くの北白川宮邸に助けを求めた。日本刀で馬の足を切った後、馬車から飛び降りて立ち向かった丸腰の中村太郎を刺殺した。馬車の中で書類に目を通していた大久保は異変に気付き馬車から出ようとしたが、島田らは両方の扉を塞ぎ、大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は島田らに対して「無礼者」と一喝したが、護身のための武装をしていなかったことが仇となり、なす術もなく殺害された(享年49〈数え年〉、満47歳没)。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで達していた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保は全身に16箇所の傷を受けており、そのうちの半数にあたる8箇所は頭部に対するものであった。事件直後に駆けつけて大久保の遺体を見た前島密が「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。 島田らは刀を捨て大久保に一礼をして撤収し、同日、大久保の罪五事と他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首した。
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