暗殺教団の「再発見」と史実化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/19 15:02 UTC 版)
「暗殺教団」の記事における「暗殺教団の「再発見」と史実化」の解説
18世紀以降の東洋学の高まりで「暗殺教団」は多くの研究者の関心をひきつけ、アラビア語史料を用いた研究によりニザール派こそが「暗殺教団」と呼ばれた集団であったと同定されることになった。その上で融合しつつあった十字軍起源の「暗殺教団」と「マルコ・ポーロ」などの伝える「山の老人」伝説は完全に結合され、さらに大麻吸引のイメージが付され学問的装いをもって伝説が歴史となるに至る。しかし、当時の東洋学者らが用いたアラビア語史料の多くは大部分反イスマーイール派の立場に立つものであって、史料における脚色を認識できないまま用いたため、現地スンナ派などの反イスマーイール派言説とヨーロッパにおける伝説がそのまま史実として採用されてしまう。 この過程でもっとも大きな役割を果たしたのが、シルヴェストル・ド・サシーが1809年に発表した論文である。ド・サシーは、それまでの東洋学での暗殺教団の起源・活動関連諸説を否定、アブー・シャーマの年代記写本などを用いて、十字軍史料における「Assassini」、「Assissini」、「Heyssisini」など「assassin」の類語がアラビア語「Ḥašīšī」あるいは「Ḥaššāš」(および両者の複数形、Ḥašīšiyyūn [ハシーシユーン])とḤaššāšīn [ハッシャーシーン])に由来するものとした。すでに複数のアラビア語史料でニザール派を「Ḥašīšī」と呼ぶことが確認されており、ここに「暗殺教団」がニザール派と同定された。 さらにド・サシーはアラビア語「ハシーシュ」(Ḥašīš)が大麻を意味することに着目し、マルコ・ポーロの「山の老人」伝説のヴァリエーションを学術的裏付けの形でニザール派に結びつけた。すなわち使命達成によって行くことの出来るとされる(死後の)楽園をイメージするものとして、刺客らに対し秘薬として麻薬が用いられたのであろう、というものである。これに対し、暗殺者はただの麻薬中毒という説も多く行われたが、大麻を用いた、という点では一致が見られている。このような見解を集大成してフォン・ハマー=プルグスタールが最初のアラムート期ニザール派通史を書いたのもこの時期であり、同書は1930年代までニザール派研究の基本として参照されることになる。しかしアラビア語で大麻飲み(さらにエジプト方言で「騒々しい人」)を意味するハッシャーシュ(Ḥaššāš)としてニザール派が言及されている史料は存在していないとの指摘はいまだ行われていなかった。
※この「暗殺教団の「再発見」と史実化」の解説は、「暗殺教団」の解説の一部です。
「暗殺教団の「再発見」と史実化」を含む「暗殺教団」の記事については、「暗殺教団」の概要を参照ください。
- 暗殺教団の「再発見」と史実化のページへのリンク