暗殺者の逮捕と反セルビア暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:40 UTC 版)
「サラエボ事件」の記事における「暗殺者の逮捕と反セルビア暴動」の解説
最終的に、サラエボ事件の暗殺者はその全員が逮捕された。現行犯で逮捕されたプリンツィプとチャブリノビッチは当初、取り調べに対しそれぞれが無関係の単独犯であると主張したが、リーダー格のイリッチが捜査網の広がりとともに逮捕され、彼が暗殺に参加した他のメンバーの名前を自白したことで、身を隠していたグラベジュ、ポポヴィッチ、チュブリロヴィッチの3人も当局によって逮捕された。メフメドバシッチはモンテネグロに脱出することでオーストリア当局の捜査を逃れた。オーストリア=ハンガリー帝国内で逮捕された6人の暗殺者と、武器の密輸等で彼らの計画を支援したとして逮捕された協力者は、サラエボで共に裁判にかけられた。メフメドバシッチは逃走先のモンテネグロで逮捕されたが、拘留中にセルビアへ逃げることを許され、その後セルビア軍の外人部隊に加入した。1917年、セルビア亡命政府はメフメドバシッチを暗殺と無関係の虚偽の罪状で投獄した。(#テッサロニキ裁判(1917年春)参照) 暗殺の数時間後から、サラエボ市内やオーストリア=ハンガリーの他の地域で反セルビア暴動が発生し、暴動は軍が治安回復に動くまで収束しなかった。暗殺当日の夜、ボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアではセルビア系住民に対する虐殺も行われた。それらの暴力行為は当時のボスニア・ヘルツェゴビナ総督オスカル・ポティオレク(英語版)によって組織され、また扇動されていた。サラエボ市の警察は暴動を抑制するための努力を何もしなかった。小説家イヴォ・アンドリッチは、サラエボの反セルビア暴動を「憎しみに満ちたサラエボの熱狂」と表現した。サラエボ市では暴動初日に2人のセルビア人が殺害され、破壊または略奪されたセルビア人所有の住宅、店舗、学校、施設(銀行、ホテル、印刷所など)は合計で約1000軒にのぼった。
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