テッサロニキ裁判(1917年春)
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「サラエボ事件」の記事における「テッサロニキ裁判(1917年春)」の解説
1917年の初め、オーストリア=ハンガリーとフランスの間で秘密裏に和平交渉が行われた。それと並行して、オーストリア=ハンガリーとセルビアの間でも和平交渉が行われていたという情況証拠が存在する。オーストリア皇帝カール1世は、テッサロニキに亡命中のセルビア政府にセルビアの領地を返還するにあたっての主な条件を提示し、セルビア政府は、以後オーストリア=ハンガリー帝国に対してセルビアからの政治的動揺がもたらされることはないと保証すべきであると要求した。 和平交渉のしばらく前から、セルビア王国の摂政アレクサンダルと彼に忠実な士官らは、ディミトリエビッチを中心とする党派をアレクサンダルに対する脅威とみなしており、その排除を画策していた。オーストリア=ハンガリー帝国からの要求は、ディミトリエビッチ排除の動きにさらなる勢いを与えた。1917年3月15日、ディミトリエビッチと彼に忠実な士官らは、サラエボ事件とは無関係のさまざまな虚偽の罪状で起訴され、裁判にかけられた(1953年にセルビア最高裁で再審理が行われ、全員の潔白が証明された)。1917年5月23日、ディミトリエビッチと8人の同僚(計9人)に死刑が宣告された。他の2人には懲役15年が宣告された。被告の1人は裁判中に死亡し、彼への起訴は取り下げられた。その後、セルビア高等裁判所は2人の死刑判決を取り消し、さらにアレクサンダルが4人の死刑を減刑したため、最終的に死刑となったのは3人のみだった。事件当時にセルビア軍諜報部長だったディミトリエビッチは、自らが大公フランツ・フェルディナントの殺害を指示したことを裁判中に告白した。裁判中、計4人の被告がサラエボ事件への関与を告白しており、彼らへの最終的な処分は以下の通りであった。 被告人名判決ドラグーティン・ディミトリエビッチ 銃殺刑 (1917年6月26日執行) リュボミル・ヴロビッチ(英語版) 銃殺刑 (1917年6月26日執行) ラデ・マロバビッチ(英語版) 銃殺刑 (1917年6月26日執行) ムハメド・メフメドバシッチ(英語版) 懲役15年 (のちに減刑され1919年に釈放) セルビアの首相ニコラ・パシッチ(英語版)は、ロンドンに居る使節に宛てた書簡の中で、ディミトリエビッチらへの死刑執行を正当化して、「ディミトリエビッチは、他のあらゆる罪に加えて、フランツ・フェルディナントの殺害を命令したのは自分であると認めたのだ。今や、誰にも刑の執行を延期することはできまい」と述べた。 3人の死刑囚が処刑場まで車で連れて行かれた際、ディミトリエビッチは運転手に向かって次のように述べた。「はっきりさせておくが、私が今日、セルビアの銃弾によって殺されるのは、サラエボの一件を指示したというただそれだけが理由なのだ」 メフメトバシッチは第一次世界大戦後に帰国して服役した後1919年に出所し、1943年にサラエボでウスタシャにより殺害されている。
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