テッサロニキ裁判とは? わかりやすく解説

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テッサロニキ裁判(1917年春)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:40 UTC 版)

サラエボ事件」の記事における「テッサロニキ裁判(1917年春)」の解説

1917年初めオーストリア=ハンガリーフランスの間で秘密裏和平交渉が行われた。それと並行してオーストリア=ハンガリーセルビアの間でも和平交渉が行われていたという情況証拠存在するオーストリア皇帝カール1世は、テッサロニキ亡命中のセルビア政府セルビア領地返還するにあたって主な条件提示しセルビア政府は、以後オーストリア=ハンガリー帝国に対してセルビアからの政治的動揺もたらされることはないと保証すべきである要求した和平交渉のしばらく前から、セルビア王国摂政アレクサンダル彼に忠実な士官らは、ディミトリエビッチを中心とする党派アレクサンダル対す脅威みなしており、その排除画策していた。オーストリア=ハンガリー帝国からの要求は、ディミトリエビッチ排除動きさらなる勢い与えた1917年3月15日、ディミトリエビッチと彼に忠実な士官らは、サラエボ事件とは無関係さまざまな虚偽罪状起訴され裁判かけられた(1953年セルビア最高裁再審理が行われ、全員潔白証明された)。1917年5月23日、ディミトリエビッチと8人の同僚(計9人)に死刑宣告された。他の2人には懲役15年宣告された。被告1人裁判中死亡し、彼への起訴取り下げられた。その後セルビア高等裁判所2人死刑判決取り消し、さらにアレクサンダルが4人の死刑減刑したため、最終的に死刑となったのは3人のみだった。事件当時セルビア軍諜報部長だったディミトリエビッチは、自らが大公フランツ・フェルディナント殺害指示したことを裁判中告白した裁判中、計4人の被告サラエボ事件への関与告白しており、彼らへの最終的な処分以下の通りであった被告人名判ドラグーティン・ディミトリエビッチ 銃殺刑 (1917年6月26日執行) リュボミル・ヴロビッチ(英語版銃殺刑 (1917年6月26日執行) ラデ・マロバビッチ(英語版銃殺刑 (1917年6月26日執行) ムハメド・メフメドバシッチ(英語版懲役15年 (のちに減刑され1919年釈放) セルビアの首相ニコラ・パシッチ(英語版)は、ロンドンに居る使節宛てた書簡の中で、ディミトリエビッチらへの死刑執行正当化して、「ディミトリエビッチは、他のあらゆる罪に加えてフランツ・フェルディナント殺害命令したのは自分であると認めたのだ。今や誰にも刑の執行延期することはできまい」と述べた。 3人の死刑囚処刑場まで車で連れて行かれた際、ディミトリエビッチは運転手向かって次のように述べた。「はっきりさせておくが、私が今日セルビア銃弾によって殺されるのは、サラエボ一件指示したというただそれだけ理由なのだ」 メフメトバシッチは第一次世界大戦後帰国して服役した1919年出所し1943年サラエボウスタシャにより殺害されている。

※この「テッサロニキ裁判(1917年春)」の解説は、「サラエボ事件」の解説の一部です。
「テッサロニキ裁判(1917年春)」を含む「サラエボ事件」の記事については、「サラエボ事件」の概要を参照ください。

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