ラスプーチンとの繋がり
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「アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事における「ラスプーチンとの繋がり」の解説
ピエール・ジリヤールは、4人の大公女にとってアレクサンドラは絶対的な存在であり、母親が病気の時には4人娘が一歩も外出が出来なくなってしまうほどであったと述べている。息子アレクセイの病気を治したとしてアレクサンドラから信頼を勝ち得たグリゴリー・ラスプーチンと皇帝の子供達の親密な友情はやり取りされた手紙の内容からも明らかになっている。アナスタシアも「親愛なる、大切な、唯一の友人」「私はまたあなたに会いたい。今日、夢の中にあなたが出てきました。いつもママにあなたがいつ来るのか聞きます。・・・とても優しくしてくれる、いつも親愛なるあなたのことを考えています」と書いた手紙をラスプーチンに送った。 ラスプーチンはある時から子供達の「保育室」への出入りも認められるようになり、保育室に勤務するソフィア・チュッチェヴァは出入りを禁止しようとして苦情を入れたが、アレクサンドラはこれに腹を立てて彼女に暇を言い渡した。その後、チュッチェヴァはアレクサンドラの姉であるエリザヴェータ・フョードロヴナらにニコライ2世一家の話をした。エリザヴェータは妹の目を覚まさせようと努力して自分から彼女に会いに行ったりもしたが効果は無く、最終的には不和が高じて互いに交際しなくなった。ラスプーチンが子供達の部屋を訪れた話については全ての報告で完全に潔白とされ、一家は憤慨した。チュッチェヴァはマリアの叔母のクセニアにも、ラスプーチンが寝る用意をしているオリガとタチアナのところまで行って彼女達と会話をして抱き締めたり撫でたりしているという話をした。また、ラスプーチンの話を彼女にしないように子供達が教えられていたことや保育室スタッフには彼の訪問を隠すように注意されていたという話もした。チュッチェヴァの話を聞いたクセニアは1910年3月15日に、ラスプーチンに対するアレクサンドラと彼女の子供達の態度について「非常に信じられないし、理解を通り越している」と書いている。 1910年春には皇室の女家庭教師、マリア・ヴィシュニャコヴァがラスプーチンに強姦されたという噂が世間に広まった。7年後の彼女自身の証言によると、皇后は暴行の報告を信じようとせず、「ラスプーチンの行うことは何であれすべて神聖なものです」と述べたという。ヴィシュニャコヴァは1913年に教育係の職を解かれた。噂が自分のもとまで届くと、ニコライ2世はただちに調査を命じた。オリガ・アレクサンドロヴナには「養育係の女性は、近衛兵のコサックとともにベッドにいたところを捕らえられた」と伝えられたという。 ラスプーチンはアレクサンドラのみならず、4人の大公女達までも誘惑したという噂が世間に広まった。印刷されない話が人から人へと伝わり、ラスプーチンがニコライ2世を室外に出してアレクサンドラと寝た、ラスプーチンが4人の大公女全員をレイプしたという噂まで飛び交う始末だった。ラスプーチンと敵対した修道司祭のイリオドル(英語版)は彼から見せびらかされたアレクサンドラとその4人の娘達が彼に向けて書いた熱烈な手紙を盗み出し、そのコピーを大量にばらまいた。ラスプーチンとの性的関係を持っているかのように示唆する皇后、4人の大公女、女官のアンナ・ヴィルボヴァ(英語版)のヌードが背景に描かれたポルノ漫画も登場した。スキャンダルが広まった後、アレクサンドラについての悪評が広まるのを懸念したニコライ2世はラスプーチンに対してしばらくサンクトペテルブルクを離れるように命じ、ラスプーチンはパレスチナへの巡礼の旅に出た。こうした噂にも関わらず、ラスプーチンと皇室の交流は1916年12月17日(グレゴリオ暦で12月29日)に彼が暗殺されるまで続いた。アレクサンドラは暗殺の11日前にニコライ2世に宛てた手紙で「私達の友人は、彼女達は年齢の割に困難な道筋を経験し、心が大いに成熟していると話して私達の女の子にとても満足しています」と書いている。 A・A・モルドヴィノフは回顧録の中で、ラスプーチンが暗殺されたニュースを知らされた夜に4人の大公女がいずれかのベッドルームのソファーの上に密接に身を寄せ合って座り、ひどく動揺していたことを報告している。暗いムードにあったことを振り返り、モルドヴィノフには彼女達が迫り来る政治的混乱を感知していたかのように思えたという。ラスプーチンはアナスタシアと彼女の姉妹、その母親が裏面に署名したイコンで埋葬された。アナスタシアも12月21日のラスプーチンの葬儀に参列し、一家は彼が埋葬された場所に礼拝堂を建設することを計画した。 2年後の皇帝一家殺害を指揮したヤコフ・ユロフスキーは大公女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の祈りの言葉を添えた魔除けのロケットペンダントを首にかけていたと証言している。
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ラスプーチンとの繋がり
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「マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)」の記事における「ラスプーチンとの繋がり」の解説
ピエール・ジリヤールは4人の大公女にとってアレクサンドラは絶対的な存在であり、母親が病気の時には4人娘が一歩も外出が出来なくなってしまうほどであったと述べている。息子アレクセイの病気を治したとしてアレクサンドラから信頼を勝ち得たグリゴリー・ラスプーチンと皇帝の子供達の親密な友情はやり取りされた手紙の内容からも明らかになっている。ラスプーチンは1908年に当時9歳のマリアに宛てて「私の親愛なるマ(マリア)よ! 海や自然とどんな風に話したのか教えておくれ! あなたの素直な心が好きだよ。私達は近いうちに会えるね! ではまたね」という内容の第一の電報を送っている。第二の電報では、「私の親愛なるマ(マリア)よ! 小さな友人よ! 主はあなたに苦難を乗り切るためのキリストの知恵と喜びを授けて下さるだろう。この世は既に日暮れ時のようだ。それが心配事なのだ」と送っている。1909年2月にはすべての子供達に「神の自然の全体を、特に彼が地上に創造した万物を愛しなさい。神の母は常に花や針仕事に従事されておられるのだ」と助言する電報を送っている。 ラスプーチンはある時から子供達の「保育室」への出入りも認められるようになり、保育室に勤務するソフィア・チュッチェヴァは出入りを禁止しようとして苦情を入れたが、アレクサンドラはこれに腹を立てて彼女に暇を言い渡した。その後、チュッチェヴァはアレクサンドラの姉であるエリザヴェータ・フョードロヴナらにニコライ2世一家の話をした。エリザヴェータは妹の目を覚まさせようと努力して自分から彼女に会いに行ったりもしたが効果は無く、最終的には不和が高じて互いに交際しなくなった。ラスプーチンが子供達の部屋を訪れた話については全ての報告で完全に潔白とされ、一家は憤慨した。チュッチェヴァはマリアの叔母のクセニアにも、ラスプーチンが寝る用意をしているオリガとタチアナのところまで行って彼女達と会話をして抱き締めたり撫でたりしているという話をした。また、ラスプーチンの話を彼女にしないように子供達が教えられていたことや保育室スタッフには彼の訪問を隠すように注意されていたという話もした。チュッチェヴァの話を聞いたクセニアは1910年3月15日に、ラスプーチンに対するアレクサンドラと彼女の子供達の態度について「非常に信じられないし、理解を通り越している」と書いている。 ラスプーチンはアレクサンドラのみならず、4人の大公女達までも誘惑したという噂が世間に広まった。印刷されない話が人から人へと伝わり、ラスプーチンがニコライ2世を室外に出してアレクサンドラと寝た、ラスプーチンが4人の大公女全員をレイプしたという噂まで飛び交う始末だった。ラスプーチンと敵対した修道司祭のイリオドル(英語版)は彼から見せびらかされたアレクサンドラとその4人の娘達が彼に向けて書いた熱烈な手紙を盗み出し、そのコピーを大量にばらまいた。ラスプーチンとの性的関係を持っているかのように示唆する皇后、4人の大公女、アンナ・ヴィルボヴァのヌードが背景に描かれたポルノ漫画も登場した。 スキャンダルが広まった後、アレクサンドラについての悪評が広まるのを懸念したニコライ2世はラスプーチンに対してしばらくサンクトペテルブルクを離れるように命じ、ラスプーチンはパレスチナへの巡礼の旅に出た。こうした噂にも関わらず、ラスプーチンと皇室の交流は1916年12月17日(グレゴリオ暦で12月29日)に彼が暗殺されるまで続いた。アレクサンドラは暗殺の11日前にニコライ2世に宛てた手紙で「私達の友人は、彼女達は年齢の割に困難な道筋を経験し、心が大いに成熟していると話して私達の女の子にとても満足しています」と書いている。 A・A・モルドヴィノフは回顧録の中で、ラスプーチンが暗殺されたニュースを知らされた夜に4人の大公女がいずれかのベッドルームのソファーの上に密接に身を寄せ合って座り、ひどく動揺していたことを報告している。暗いムードにあったことを振り返り、モルドヴィノフには彼女達が迫り来る政治的混乱を感知していたかのように思えたという。ラスプーチンはマリアと彼女の姉妹、その母親が裏面に署名したイコンで埋葬された。マリアも1916年12月21日のラスプーチンの葬儀に参列し、一家は彼が埋葬された場所に礼拝堂を建設することを計画した。 2年後の皇帝一家殺害を指揮したヤコフ・ユロフスキーは大公女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の祈りの言葉を添えた魔除けのロケットペンダントを首にかけていたと証言している。
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