革命と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 02:49 UTC 版)
「コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)」の記事における「革命と亡命」の解説
国王としては首相のゲオルギオス・パパンドレウと緊張関係にあり、国軍の指揮権を巡り争った。政争に敗北したパパンドレウは1965年に辞任した。しかし政局が不安定化し、冷戦下でギリシャの共産化を狙う共産主義者が付け入る可能性も取りざたされたため、1967年4月21日に軍事クーデターが生じた。同年12月にコンスタンティノスは家族を連れてローマに脱出した。 その後も国王不在のまま、形だけの君主制が続いていたが、1973年に軍事政権は君主制を廃止し、共和制移行を宣言した。1974年には共和制主義者のコンスタンディノス・カラマンリス率いる政権のもとで2度目の国民投票が行われ、大差をつけて正式に君主制の廃止が決定した。 ギリシャの民衆と政治家の中には、軍事クーデター前後における政治の混乱を、コンスタンティノス2世が原因だとする意見もある。パウロス1世とギリシャ共和国双方で首相を務め、後には大統領も務めたカラマンリスは、コンスタンティノス2世を「パウロス1世のわんぱく坊主」だと軽蔑していた。他の政治家の中には単に「馬鹿者」と呼ぶ者もいる。国民投票の動向が決定した1974年12月8日のラジオ演説でカラマンリスは、「今日、国家の癌が国民全体により否定された」と述べた。これは当時の世論を物語っているという意見もある。
※この「革命と亡命」の解説は、「コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)」の解説の一部です。
「革命と亡命」を含む「コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)」の記事については、「コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)」の概要を参照ください。
革命と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:39 UTC 版)
初め、イリインは、1917年に勃発した2月革命に人民の解放と認識していた。他の知識人同様、彼はこの革命を好意的にとらえていたのである。しかしながら、十月革命によってボリシェビキ政権が確立すると、彼の革命に対する期待は失望へと変わった。第二次モスクワ公人会議において、イリインは「革命は、国家による利己的な略奪へと変貌した」と語っている。 その後、イリインはロシア革命をロシア史上もっとも恐ろしい大惨事であり、国家全体の崩壊と評するようになった。しかしながら、旧体制の支持者たちとは異なり、すぐにロシア国外へと亡命することはなかった。1918年、イリインはモスクワ大学の法学教授になり、前述の通り、ヘーゲルに関する学術論文も出版されている。 1918年4月以降、イリインは反共産主義的活動の疑いによって何度か投獄された。恩師であるノブゴロージェフも一時投獄されている。1922年、イリインは、160人の著名な知識人らとともに「哲学者の船(英語版)」によって国外追放されることとなった。
※この「革命と亡命」の解説は、「イワン・イリイン」の解説の一部です。
「革命と亡命」を含む「イワン・イリイン」の記事については、「イワン・イリイン」の概要を参照ください。
革命と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 09:41 UTC 版)
「ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ」の記事における「革命と亡命」の解説
マリヤとキーラの2女が生まれたのち、皇帝に許されてロシアに戻ったヴィクトリアたちの暮らしは、10年にも満たなかった。ラスプーチン暗殺に始まる崩壊への道は、キリルが海軍を率いてドゥーマを開催する程度では抑えが効かなかった。革命政府に全財産を没収されたキリル一家は、出国することを許された。何とか隠し通せた宝石を衣服の中に紛れ込ませ、彼らは船でフィンランドへ渡った。ロシア白軍の勝利を願い、支援する彼らはやがてコーブルクへ移った。イギリス政府は帝政復活のために何もしてくれず、そのうちヴィクトリアは反ボリシェヴィキの立場からロシア帝政を支持したナチスに興味を持ち、多額の寄付をした。帝政の復活を目指して活動するうちに、やがてキリルは精神を病んだ。 フランスのサン=ブリアック=シュル=メール(ブルターニュ、イル=エ=ヴィレーヌ県)へ移ったヴィクトリアは、ここでの暮らしを楽しんだ。退職したイギリス人に、限りある収入でも暮らせるリゾートの町として人気があった。多くの友人ができ、アマチュアのバレエ団に関わって日々を過ごすヴィクトリアとは対照的に、キリルは近寄りがたい人物と見られていた。町では、キリルが時折家を飛び出してはパリに行っているという噂が広がり始めた。それまで人生の全てをキリルに捧げてきたヴィクトリアにとって、裏切り以外の何物でもなく、子供たちのために外面を保とうとしたが、1936年2月に発作を起こして倒れた。それからわずか1ヶ月後、ヴィクトリアは急死した。
※この「革命と亡命」の解説は、「ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ」の解説の一部です。
「革命と亡命」を含む「ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ」の記事については、「ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ」の概要を参照ください。
革命と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:05 UTC 版)
「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の記事における「革命と亡命」の解説
1917年に2月革命が勃発し、ニコライ2世は3月15日(ユリウス暦3月2日)に退位した。モギリョフの大本営に退位した皇帝を訪ねた後、マリヤはキエフに戻ると、町の政情が変わり、人々は元皇太后の存在を疎ましがるようになっていた。彼女は親族たちの求めに応じてクリミアへ汽車で移動し、同地に避難してきていた他の皇族たちと合流した。 クリミアの離宮に滞在中、マリヤはニコライ2世一家銃殺の報を聞いた。皇太后は表向き、この報告を不確かな噂に過ぎないとして認めようとしなかった。皇帝一家の処刑から間もなく、マリヤはニコライ2世からの使者に会い、一家がエカテリンブルクで困難な生活を強いられていることを伝えてきた。皇太后の日記には、「誰も彼らを救出できない…神を除いては!おお主よ、どうか私の可哀そうな、不運なニッキーをお守りください、彼が大いなる試練に立ち向かうことができるよう、お助けください!」とある。日記の別の箇所で、彼女は自分をこう慰めてもいる、「一家はロシアをすでに出国していると確信している、ボリシェヴィキが真実を隠そうと躍起になっている」。マリヤは死ぬまで頑なにこの確信を守り続けた。長男一家が惨殺されたという真実は到底耐え難く、マリヤはこれを公に認めることは出来なかった。彼女がニコライ2世とその家族に送った手紙はほぼすべてが散逸した。しかし現存する一通で、マリヤはニコライに宛てて次のように書き送っている、「私の思考や祈りが貴方から離れたことがないのは分かっていますね。昼も夜も貴方の事を考えていますし、時折心配事があるとそれが耐え難いほどになります。でも神は慈悲深い。主はこの残酷な試練に立ち向かうだけの力を私たちにお与えくださいました」。次女オリガは母親の心情について次のように解説している、「母は晩年の数年間、精神の奥深くでは[皇帝一家が命を落としたという]真実を鋼の心で受け入れていたと確信しています」。 1917年の帝政転覆後も、マリヤ皇太后は当初ロシアを離れることを拒んでいた。1919年になり、姉のイギリス王太后アレクサンドラに急き立てられ、全く気が進まないまま海路クリミアを離れ、ロンドンへ移ることになった。イギリス王ジョージ5世が叔母を救出するべく戦艦マールバラを派遣した。マールバラ号は黒海を抜け、マルタ島のイギリス海軍基地にしばらく滞在したのち、マリヤの一行はイギリスに向かった。姉アレクサンドラは全てを失った妹を温かく迎え入れ、ロンドンのマールバラ・ハウスやノーフォーク州のサンドリンガム・ハウスで一緒に暮らした。しかしマリヤは姉アレクサンドラ王太后が国民から慕われ人気を集めている姿に嫉妬し、またかつては宮廷席次で上位だった自分が今や姉よりも下位に扱われることにも嫌気がさし、ついには生国デンマークへ帰ってしまった。甥のデンマーク王クリスチャン10世の好意でアマリエンボー宮殿の一翼にしばらく仮住まいをした後、マリヤはかつて姉と共同購入したコペンハーゲン郊外のヴィズウーア城を終の住処に定めた。 多くの亡命ロシア人がマリヤ皇太后を慕ってコペンハーゲンに住み着き、彼らはしばしば経済的援助を請うた。1921年6月、亡命ロシア人の政治組織・全ロシア君主主義者評議会は皇太后マリヤにロシア帝権の代理執行者(locum tenens)の地位に就くよう提案したが、マリヤは「誰もニッキーが死んだ所を見ていないのだから」と、息子が生存している可能性は捨てきれない、としてこの申し出を辞退した。マリヤは皇帝一家の死の状況について調査していた元法曹ニコライ・ソコロフ(ロシア語版)にも活動資金を与えていた。一度ソコロフと面会の約束を交わしたが、秘書役のオリガ大公女が「病がちの高齢女性が自分の息子一家の惨たらしい死に様の話を聞かされて平気なわけがない」として面会自体をキャンセルさせている。
※この「革命と亡命」の解説は、「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の解説の一部です。
「革命と亡命」を含む「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の記事については、「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の概要を参照ください。
- 革命と亡命のページへのリンク