革命から現代へ
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1789年3月2日、ユゼルシュで執事長管区の三部会が開かれ、立候補者115人から29人が選出された。3月16日、彼らはチュールに集まり、嘆願書に署名した。1789年7月30日、ルイ16世の王弟アルトワ伯(のちのシャルル10世)が16000人の兵を連れてユゼルシュに到着したという噂が流れた。アルトワ伯の軍隊はボルドーといくつかの町に火を放っていた。すぐにユゼルシュの男たちと周辺の教区民たちは武装したが、軍は到着しなかった。噂は、フランス人全てを武装させるための策略だったのである。 1790年、コレーズ県が創設された。県はブリーヴ、チュール、ユセル、そしてユゼルシュの4郡で構成された。各郡には41の小郡がおかれた。革命時代、ユゼルシュはフォーブール・エガリテ郡の名が採用された郡の郡庁となった。1793年9月19日、マルシェ広場においてコレーズ県初のギロチン刑が執行された。ナポレオン時代、ユゼルシュ生まれのアレクシス・ボワイエ(fr)が皇帝専属の外科医となり、ポーランド及びプロイセン遠征に同行している。 1826年、コミューンのサントゥラリーがユゼルシュと合併した。 1840年に計画され、1855に完成したトンネルは、1世紀の間、オートルート A20だけが通っていた。1892年、ユゼルシュ-セイラック-チュール-アルジャンタ間を走るメーターゲージの鉄道に、鉄道トンネルが追加された。POコレーズ鉄道(fr)の鉄道高架橋の建設は町に新たな次元を与えた。142mの高さの高架橋は1902年に完成した。高架橋は12のアーチを持ち、POコレーズの駅とつないでいた。POコレーズ鉄道は1969年をもって廃止された。高架橋は現在遊歩道として整備されている。 1870年9月5日、ユゼルシュの首長タイヤック氏は、帝国の消滅と第三共和国の成立が宣言されたことを電報で自らの議会に通知した。1870年11月13日、ユゼルシュの議会は11月4日にパリで国民投票が全会一致で採決され、そのために国防政府の権力が保たれたことを説明した。 1944年6月、武装親衛隊のハインツ・ラマーディング率いる第2SS装甲師団が、ノルマンディー上陸作戦の後に、チュールとリモージュの間に配置されマキを排除するよう命じられた。アラサック駅に停車する列車への攻撃にレジスタンスが多く参加している間、マキによる攻撃でジャーナリストやドイツ人レジスタンス、ゲルハルト・レオの支持者たちが解放された。その中にミシェル中尉がいる。マキによるチュール攻撃直前に逮捕され、農村で二晩過ごしたラマーディングの命令によって、彼の目前でユゼルシュにて中尉は絞首刑にされた。
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