革命とドイツ統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 06:45 UTC 版)
「オルデンブルク (領邦)」の記事における「革命とドイツ統一」の解説
ヨーロッパを席巻した1848年革命からオルデンブルクも免れることはできなかったが、大きな衝突が発生することもなかった。1849年に憲法が制定されたが、アウグストの性格によって非常にリベラルな憲法となった。特権貴族が存在せず、農民の自立性が比較的高く、都市が重要な地位を占めるという背景の中でアウグストは啓蒙専制君主として国家を運営した。このため、一定の摩擦は避けられなかった。1852年、憲法にいくつかの改正が行われたが、それでもドイツ連邦の中では最も進歩的な憲法であった。1855年、1868年に行政機構の大きな改革が行われた。また、1863年には教会の業務を政府が監督することが法律によって定められた。 1853年にはヤーデ湾西岸の一角がプロイセンに売却された。プロイセンはこの土地に軍港都市ヴィルヘルムスハーフェンを建設した。 ドイツとデンマークの間に位置するシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国については、1840年代からの帰属に関する民族紛争が生じ(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題)、関係諸国を巻き込み二度の戦争に発展した。こうした中で、ペーター2世は、1863年にシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国の公位請求権者となった(ホルシュタイン=ゴットルプ家の本家筋にあたるロシア皇帝家が請求権を放棄したためである)。普墺戦争(1866年)を経て両公国がプロイセン王国により併合されると、1867年にペーターはプロイセン王国と協定を結び、請求権を放棄して補償を受け取っている。ペーター2世はオーストリア帝国と対立する立場を示し、オルデンブルク大公国は1866年に北ドイツ連邦に参加、1871年にドイツ帝国の構成国となった。 1918年、ドイツ革命が勃発して君主制が廃止され、オルデンブルク大公国も終焉を迎えた。その領域にはオルデンブルク自由州が設立された。
※この「革命とドイツ統一」の解説は、「オルデンブルク (領邦)」の解説の一部です。
「革命とドイツ統一」を含む「オルデンブルク (領邦)」の記事については、「オルデンブルク (領邦)」の概要を参照ください。
- 革命とドイツ統一のページへのリンク