革命と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:38 UTC 版)
「ニコラエ・チャウシェスク」の記事における「革命と最期」の解説
詳細は「ルーマニア革命 (1989年)」を参照 1989年にポーランドで民主的な政権が成立するなど、東欧革命の余波がルーマニアにも波及することを恐れたチャウシェスクは、チェコ事件の時とは反対にワルシャワ条約機構軍による軍事介入をソ連に要請した。しかしソ連のゴルバチョフは新ベオグラード宣言に基づきこの要求を一蹴し、チャウシェスクは事実上ソ連に見限られる形となった。チャウシェスクはなおも権力の維持を図ろうとするが、首都ブカレストを含めて全国規模で暴動が勃発。 チャウシェスクは軍隊による発砲を含む弾圧で事態に対処しようとするも、国防大臣ワシーリ・ミリャはこれを拒否。その後、ミリャが不審な死を遂げ、チャウシェスクにより処刑されたという噂が広がり、それまでチャウシェスクに忠誠を誓っていたルーマニア国軍も政権に反旗を翻した。同年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚し政権は崩壊、12月25日、逃亡先のトゥルゴヴィシュテにおいて、革命軍の手によって妻エレナとともに即決で死刑判決を下され、直ちに銃殺刑された。生存説を打ち消すために、処刑された死体の映像をメディアに公開された。
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