革命と論争の展開
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「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」の記事における「革命と論争の展開」の解説
第一革命は1905年10月に最高潮に達する。労働者によるゼネラル・ストライキがひろがり、労働者代表ソヴィエトが出現した。10月17日、ツァーリは市民的自由と国会開設を約束する十月詔書を発布した。 自由主義ブルジョアジーが詔書に満足したのに対し、社会民主主義者は闘争を継続した。ブルジョアジーによるブルジョア革命というメンシェヴィキ主流派の考え方は現実に合わなくなった。メンシェヴィキの合法新聞として創刊された『ナチャーロ』はパルヴスとトロツキーによってリードされることになった。一方、強力な農民政党が現れないため、ボリシェヴィキの側でもレーニンの労農民主独裁論から逸脱した主張が現れた。ボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ』には、大規模な生産部門の社会化が不可避だ、というルナチャルスキーの論文が掲載された。しかしソヴィエトは11月から12月にかけて弾圧を受けて壊滅し、12月のモスクワでの武装蜂起も失敗に終わった。 レーニンは10月に「われわれの任務と労働者代表ソヴェト」を書き、その中でソヴィエトを「政治的には臨時革命政府の萌芽と見るべきであろう」と評価した。「全権力をソヴェトへ」というスローガンを提示した1917年の四月テーゼにつながる認識だったが、1905年には発表されることはなかった。11月に発表された「死にかけた専制と新しい人民権力機関」では、ソヴィエトをはじめとする様々な運動体を念頭に置いて、次のように書いた。 十月革命は、それにつづく軍隊反乱と結びついて専制を極度に無力にしたので、政治的ストライキによってすきおこされ、自由の戦士の血をほどこされた土地のうえには、新しい人民権力の諸機関がひとりでに成長しはじめた。これらの機関は、革命的諸政党と労働者・農民その他真に革命的闘争を行っている人民分子の戦闘組織である。これらの機関は、社会主義的プロレタリアートと革命的小ブルジョアジーとの同盟を実際に実現している。 トロツキーは1906年に『総括と展望』を書き、その中でレーニンの労農民主独裁論を批判した。「農民には独立した政治的役割を果たす能力が完全に欠けている」ため、農民はプロレタリアートによって解放される以外ない。また、「指導的勢力として政府に参加する以上、プロレタリアートの代表はまさにそのことによって、最小限綱領と最大限綱領の境界を突き崩している」ため、ブルジョア民主主義の枠内にとどまることはできない。
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