ロマノフ朝の成立
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「ロシア帝国の歴史」の記事における「ロマノフ朝の成立」の解説
詳細は「動乱時代」および「ロマノフ朝」を参照 1584年にイヴァン4世が死去して、フョードル1世(在位1584年 - 1598年)が即位するが、彼が跡継ぎを残さずに死去したためリューリク朝は断絶した。全国会議(ゼムスキー・ソボル)の支持を受けた外戚のボリス・ゴドゥノフが即位するが、死去したと伝えられていたイヴァン4世の子ドミトリーを名乗る男が現れ(偽ドミトリー1世)、ポーランド軍とともにロシアに侵攻した。1605年にボリス・ゴドゥノフは事態を収拾できずに死去し、偽ドミトリー1世がモスクワを占拠してツァーリに即位した。偽ドミトリー1世は1年程で殺害されるが、偽ドミトリー2世、3世が現れて内戦状態が続き、1610年にはロシア・ポーランド戦争を起こして介入したポーランド軍にモスクワを占領される事態に陥った(動乱時代)。この時期にロシアはスモレンスクを含む西部国境地帯の一部をポーランドに、バルト海沿岸のノヴゴロドをスウェーデンに奪われている。 ポーランドの支配に対して総主教ゲルモゲーンをはじめする抵抗運動が起こり、1612年に国民軍の攻撃によってポーランド軍は追われ、モスクワは奪回された。1613年2月、全国会議は古くからの名門貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフ(在位1613 - 1645年)をツァーリに選出して、ロマノフ朝が開かれた。ミハイル・ロマノフの父親フィラレートが総主教に就任して実権を握り、スウェーデン、ポーランドと休戦するとともに国内治安の回復に努めた。1632年、フィラレートは失地回復を目指してポーランドと開戦するが、失敗に終わった(スモレンスク戦争)。戦争中にフィラレートが死去してミハイル・ロマノフの親政に入り、南方のクリミア・ハン国の侵攻に備えるべく全長800kmに及ぶペルゴロド線を構築した上で、対外戦争を控え、もっぱら国内秩序回復に努めた。 アレクセイ(在位1645年 - 1676年)の即位後、程ない1648年にウクライナのザポロジェ・カザークがポーランドに対して反乱を起こして、ツァーリの庇護を求めた。アレクセイはポーランドとの開戦に慎重であったが、全国会議の要請を受け、ザポロジェ・カザークとペレヤスラフ条約を結び、ポーランドとの戦争に突入する。13年に渡って続いた戦争はアンドルソヴォ条約によって終結した。ロシアは動乱時代に失った西部国境地帯のみならず、ドニエプル川左岸のウクライナと右岸のキエフをも獲得した。アレクセイの時代に会議法典(英語版)が定められて都市住民の統制そして農奴制が法的に完成しており、またツァーリによる専制体制化が進められ、全国会議の役割が終焉した。彼の治世に総主教ニーコンの典礼改革を巡って対立が起き、正教会が分裂して古儀式派が成立している。
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