ロマノフ朝の成立とは? わかりやすく解説

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ロマノフ朝の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

ロシア帝国の歴史」の記事における「ロマノフ朝の成立」の解説

詳細は「動乱時代」および「ロマノフ朝」を参照 1584年イヴァン4世死去してフョードル1世在位1584年 - 1598年)が即位するが、彼が跡継ぎ残さず死去したためリューリク朝断絶した全国会議ゼムスキー・ソボル)の支持受けた外戚ボリス・ゴドゥノフ即位するが、死去した伝えられていたイヴァン4世の子ドミトリー名乗る男が現れ偽ドミトリー1世)、ポーランド軍とともにロシア侵攻した1605年ボリス・ゴドゥノフ事態収拾できずに死去し偽ドミトリー1世モスクワ占拠してツァーリ即位した偽ドミトリー1世1年程で殺害されるが、偽ドミトリー2世3世現れ内戦状態続き1610年にはロシア・ポーランド戦争起こして介入したポーランド軍モスクワ占領される事態陥った動乱時代)。この時期ロシアスモレンスクを含む西部国境地帯一部ポーランドに、バルト海沿岸ノヴゴロドスウェーデン奪われている。 ポーランド支配に対して総主教ゲルモゲーンをはじめする抵抗運動起こり1612年国民軍攻撃によってポーランド軍追われモスクワ奪回された。1613年2月全国会議古くからの名門貴族ロマノフ家ミハイル・ロマノフ在位1613 - 1645年)をツァーリ選出して、ロマノフ朝開かれたミハイル・ロマノフ父親フィラレート総主教就任して実権握りスウェーデンポーランド休戦するとともに国内治安回復努めた1632年フィラレート失地回復目指しポーランド開戦するが、失敗終わったスモレンスク戦争)。戦争中フィラレート死去してミハイル・ロマノフ親政入り南方クリミア・ハン国侵攻備えるべく全長800kmに及ぶペルゴロド線を構築した上で対外戦争控えもっぱら国内秩序回復努めたアレクセイ在位1645年 - 1676年)の即位後、程ない1648年ウクライナのザポロジェ・カザークがポーランドに対して反乱起こしてツァーリ庇護求めたアレクセイポーランドとの開戦に慎重であったが、全国会議要請を受け、ザポロジェ・カザークとペレヤスラフ条約を結び、ポーランドとの戦争突入する13年渡って続いた戦争アンドルソヴォ条約によって終結したロシア動乱時代失った西部国境地帯のみならずドニエプル川左岸ウクライナ右岸キエフをも獲得したアレクセイ時代会議法典英語版)が定められ都市住民統制そして農奴制法的に完成しており、またツァーリによる専制体制化が進められ全国会議役割終焉した。彼の治世総主教ニーコンの典礼改革巡って対立起き正教会分裂して古儀式派成立している。

※この「ロマノフ朝の成立」の解説は、「ロシア帝国の歴史」の解説の一部です。
「ロマノフ朝の成立」を含む「ロシア帝国の歴史」の記事については、「ロシア帝国の歴史」の概要を参照ください。

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