大動乱とロマノフ朝の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:51 UTC 版)
「ロシアの歴史」の記事における「大動乱とロマノフ朝の成立」の解説
詳細は「ロシア帝国の歴史」を参照 1598年、イヴァン4世の跡を継いだフョードル1世が子孫を残さずに死去し、リューリク朝は断絶した。宰相であったゴドゥノフ家のボリスがツァーリに選出された。しかし帝国は、3年に渡る大飢饉などで弱体化し、国民の支持を失った。1598年にはジョチ・ウルスのうちシビル・ハン国を滅ぼしている。1605年、帝国内に不穏な噂が流れた。1593年に死去したリューリク家の皇太子ドミトリイの生存の噂がロシア国民の間に広がったのである。これは、ツァーリの求心力低下を狙った国際的陰謀だったとされる。背景には、ロシア支配を狙うポーランド、カトリック勢力の陰謀があった。このような時にボリスは死去し、生存説のあったドミトリイ(偽ドミトリー1世)がポーランドで挙兵、ツァーリを自称しモスクワに迫った。ゴトゥノフ家は求心力を失い失脚。代わりにツァーリ・ドミトリイ2世として戴冠された。偽ツァーリ・ドミトリイは、1612年までに3世まで出現することになる。 1606年ドミトリイはモスクワで暗殺された。後任にはシューイスキイ家のヴァシーリー4世が戴冠するが、これに反対するロシア人地方貴族が反乱を起こす。ヴァシーリー4世は1年がかりで反乱を鎮圧するが、これはロシアの大動乱の始まりに過ぎなかった。 1608年、偽ツァーリ・ドミトリイ2世がツァーリを自称し、モスクワに迫った。偽ツァーリは貴族の支持を集め、対立皇帝としての地位を獲得する。窮したヴァシーリー4世は、スウェーデンに救援を要請。スウェーデンは王太子グスタフ・アドルフを派遣、ドミトリイを撤退させた。これを口実にポーランド軍は国王の親征を開始(ロシア・ポーランド戦争)、対決したロシアは大敗する。このような時にモスクワでは大貴族のクーデターが起こされ、ヴァシーリー4世は廃位された。勢いを買い、ポーランド軍はモスクワを占領した。 その後、帝位を巡りポーランドと対立し、ロシアの皇帝位は2年に渡り空位となる。その間に偽ドミトリイ2世は暗殺され、スウェーデンはノヴゴロドを占領し、対立ツァーリとして、ヴァーサ家の王子がドミトリイ3世を自称する。スウェーデン王となったグスタフ・アドルフは帝位を狙っていたが、ロシア側はカレリア、イングリアなどの領土を割譲することで、ツァーリ戴冠の野心を放棄させた。 1611年にロシア人は、国家を上げて国民軍を結成する。クジマ・ミーニンらの率いる国民軍は瞬く間に10万を超える大軍となった。1612年9月、激戦の末、ポーランドを撃退、モスクワは解放された。翌1613年2月、ロシアの大貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフをツァーリに推戴、ここに1917年まで続くロマノフ朝が成立した。 1617年にスウェーデン、1618年にポーランドと和睦し、ここに大動乱は終結した。しかしポーランド、スウェーデンに領土を割譲させられ、国力は衰微した。 ロシア帝国は、最初はツァーリの権力が軟弱で、貴族の専横を許容したが、17世紀半ばから北方戦争や、ポーランド王国との戦いを通して徐々に勢力を持ち直していった。また、ロシア正教会を保護する一方で専制的な抑圧者として振舞うなど、聖俗で権威を強靭にしていった。 なお、17世紀を通して、内陸国であったロシアは、権力争いを制しツァーリとなったピョートル1世の誕生によって激変することとなる。
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