動乱時代
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動乱時代 (大動乱、スムータ、ロシア語: Смутное время, Smutnoye vremya)は、ロシアの歴史で、1598年のリューリク朝フョードル1世の死去から1613年のロマノフ朝創設までの時代を指す。
- ^ Borisenkov E, Pasetski V. The thousand-year annals of the extreme meteorological phenomena. ISBN 5-244-00212-0, p. 190.
- ^ John Stevens Cabot Abbott, The Empire of Russia; "The murderers ransacked the palace, penetrating every room, killing every Polish man and treating the Polish ladies with the utmost brutality."「殺人者たちは宮殿内をくまなく探しまわり、全ての部屋に押し入り、ポーランド人の男を皆殺しにし、ポーランド人の女たちに暴虐の極みを尽くした。」
- ^ John Stevens Cabot Abbott, The Empire of Russia; "The Poles were exasperated beyond measure at the massacre of so many of their nobles and at the insult offered to Mariana, the tzarina. But Poland was at that time distracted by civil strife, and the king found it expedient to postpone the hour of vengeance."「ポーランド人たちは、自国の貴族たち多数が虐殺され、マリアナが辱められたことに対して尋常ならず激怒した。しかし、当時のポーランドは内訌を抱えており、国王は、復讐の機会を先送りにするのが賢明であると判断した。」
- ^ The Tatar Khanate of Crimea, allempires.net
- ^ a b c Sergey Solovyov, History of Russia from the Earliest Times, Vol. 8.
- ^ Nikolay Kostomarov, Russian History in Biographies of its main figures, Chap. 30.
- ^ Dunning, Chester S. L. (2001). Russia's first civil war: the Time of Troubles and the founding of the Romanov dynasty. Penn State Press. ISBN 0271020741
大動乱
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詳細は「動乱時代」を参照 結局、偽ドミトリー1世はモスクワに入城してゴドゥノフの息子フョードル2世を殺し、ツァーリとして戴冠した。その後、ロシアは大動乱(Смутное Время)として知られるうち続く混乱の時代に入った。ツァーリによるボヤーレへの迫害、都市民の抑圧、徐々に進む小作農たちの農奴への転落といった、権力保有者をツァーリのみ限定させ集中させるための国家的努力は、多くの社会勢力にとって快いものではなかった。専制政治に代わる体制を生みだせないまま、不満なロシア人たちは次々に現れる僭称者たちの下に結集した。この時期、政治的活動の最終目標はその時の専制者に対する影響力を獲得するか、専制者そのものにとって代わることであった。ボヤーレは内輪もめを続け、下層階級は無定見に反乱を起こし、外国軍が首都モスクワのクレムリンを占拠した。こうした状況は、ツァーリズムこそがロシアの秩序と一体性を回復するのに必要な体制であると、多くの人々に信じさせる素地をつくることになった。 大動乱は、ツァーリの座を巡って互いに対立するボヤーレ派閥による陰謀や、ポーランドやスウェーデンといった近隣諸国の介入、イヴァン・ボロトニコフ(英語版)の率いる民衆の中の過激不満分子などによる、内戦の様相を呈していた。偽ドミトリー1世と彼を支えるポーランド軍守備隊は滅ぼされ、ボヤーレの一人ヴァシーリー・シュイスキーが1606年にツァーリとなった。自らの地位を維持するためにシュイスキーはスウェーデンと同盟を結び、このことがイングリア戦争を引き起こすことになった。続いて現れた僭称者偽ドミトリー2世はやはりポーランド人と結託し、モスクワの城壁にまで迫り、トゥシノ(英語版)の村に偽宮廷を組織した。 1609年、ポーランドは公然とロシアへの介入を開始し、シュイスキーを捕えてクレムリンを占拠した(ロシア・ポーランド戦争)。一部のボヤーレがポーランドと和平条約を結び、ポーランド王ジグムント3世ヴァザの息子ヴワディスワフをツァーリに推戴した。1611年には偽ドミトリー3世がスウェーデン占領地域に現れたが、間もなく捕えられて処刑された。ポーランド軍の駐留に対する不満はロシア人の間に愛国心を喚起させた。商人ストロガノフ家の資金援助と正教会の祝福を受けた義勇軍がニジニ・ノヴゴロドで組織され、ドミトリー・ポジャルスキー公とクジマ・ミーニンに率いられてクレムリンからポーランド軍を追い出した(ru:Первое народное ополчение、ru:Второе народное ополчение、モスクワの戦い(ロシア語版))。
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