デ・ラ・ガーディエ戦役とは? わかりやすく解説

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デ・ラ・ガーディエ戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 14:54 UTC 版)

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デ・ラ・ガーディエ戦役

1609年、ノヴゴロド近くで面会するミハイル・スコピン=シュイスキーヤコブ・デ・ラ・ガーディエ英語版
戦争ロシア・ポーランド戦争
年月日1609年4月 - 1610年7月4日
場所ロシア・ツァーリ国
結果:スウェーデンは偽ドミトリー2世に勝利、ポーランドに敗北
交戦勢力
ロシア・ツァーリ国
スウェーデン王国
ポーランド・リトアニア共和国
偽ドミトリー2世
指導者・指揮官
ミハイル・スコピン=シュイスキー
ヤコブ・デ・ラ・ガーディエ英語版
スタニスワフ・ジュウキェフスキ
ロマン・ロジュンスキポーランド語版
パヴェウ・ヤン・サピェハ英語版
戦力
スウェーデン傭兵5,000人
ロシア軍5,000人(対ドミトリー2世)
ロシア軍30.000人(クルシノの戦い
大砲11門
ロシア反乱軍最大10万人
ポーランド騎兵6,500
ポーランド歩兵200
大砲2門
損害
傭兵の大半がクルシノの戦いで寝返る
ほか損害多数
ロシア反乱軍:損害多数
ポーランド軍:400
Template:Campaignbox ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)

デ・ラ・ガーディエ戦役(デ・ラ・ガーディエせんえき、: De la Gardieska fälttåget: Поход Делагарди)は、ロシア・ポーランド戦争中、ヤコブ・デ・ラ・ガーディエ英語版エヴェルト・ホルン英語版率いるスウェーデン派遣軍5千人とロシア・ツァーリ国ミハイル・スコピン=シュイスキー率いる軍勢の連合軍がポーランド・リトアニア共和国偽ドミトリー2世と戦った戦役。

背景

1609年、スウェーデン王カール9世とロシアのツァーリヴァシーリー4世ヴィボルグで同盟を締結、ロシアがケックスホルム県をスウェーデンに割譲する代償としてスウェーデンがロシア側で参戦した[1]

対偽ドミトリー2世戦役

ロシア・スウェーデン連合軍約1万人は1609年4月にノヴゴロドからモスクワに行軍、途中で反乱軍を撃破してトローイツェ・セルギエヴァ・ラーヴラの包囲英語版を解いた。偽ドミトリー2世はモスクワ近郊のトゥシノ英語版で宮廷を構え、ヴァシーリー4世を脅していたが、連合軍は偽ドミトリー2世の支持者を蹴散らし、1610年3月にはモスクワの包囲も解いて入城した[2]。その後、偽ドミトリー2世を支持したボヤールの一部がポーランド王子ヴワディスワフにロシア王位を請求するよう求めた一方、スコピン=シュイスキーは毒殺され、代わってヴァシーリー4世の弟ドミトリー・シュイスキー英語版が軍を率いた[1]

対ポーランド戦役

1610年6月、デ・ラ・ガーディエとドミトリー・シュイスキーはモスクワを発ってポーランドによるスモレンスク包囲英語版を解こうとしたが、7月4日のクルシノの戦いでデ・ラ・ガーディエの軍勢の大半がポーランドのスタニスワフ・ジュウキェフスキに寝返る結果となった[1]

その後

クルシノの戦いでデ・ラ・ガーディエの軍勢が400人を除いて寝返ったため、彼はジュウキェフスキと停戦協定を締結、モスクワのツァーリに協力しないことを代償としてヴィボルグまで行軍する権利を確保した[2]。デ・ラ・ガーディエ戦役はイングリア戦争の前ぶれとされることもある。

脚注




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