クルシノの戦いとは? わかりやすく解説

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クルシノの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 06:20 UTC 版)

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座標: 北緯55度39分27秒 東経34度55分48秒 / 北緯55.65750度 東経34.93000度 / 55.65750; 34.93000

クルシノの戦い
ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)

クルシノの戦いで突撃するフサリア
1610年7月4日
場所クルシノ
結果 ポーランドの決定的勝利
衝突した勢力
ポーランド王冠領 ロシア・ツァーリ国
スウェーデン
指揮官
スタニスワフ・ジュウキェフスキ ドミトリー・シュイスキー
ヤコブ・デ・ラ・ガーディエ
戦力

6,500–6,800人[1][2]

大砲 2門[2]

ロシア軍 30,000人[2][3]
傭兵 5,000人

大砲 11門[2]
被害者数
400人[2] 5,000人[2]
鹵獲 大砲11門

クルシノの戦い (ロシア語: Битва при Клушине)またはクウシンの戦いクウシノの戦いポーランド語: Bitwa pod Kłuszynem)は、ロシア・ポーランド戦争中の1610年7月4日、ポーランド王冠領(ポーランド・リトアニア共和国の一部)軍と、ロシア・ツァーリ国スウェーデン連合軍が、スモレンスク近郊のクルシノ村付近で衝突した戦闘。ポーランド軍は数では圧倒的に劣勢であったにもかかわらず、ヘトマンスタニスワフ・ジュウキェフスキの優れた采配や精鋭重騎兵フサリアの活躍により、ロシア軍に完勝した。

背景

1610年、ポーランドの侵攻を受けたロシアはスウェーデンと同盟を結んで反撃に出た(デ・ラ・ガーディエ戦役[1]ヴァシーリー4世の弟ドミトリー・シュイスキー率いるロシア軍は、いくつかの小部隊に分かれて包囲下のスモレンスク救援に向かった[2]。しかしこの動きを、ポーランド軍は早期に掴んでいた[2]

スタニスワフ・ジュウキェフスキ率いる1万2000人のポーランド軍は、グリゴリー・ヴァルイェフ率いる8000人のロシア軍を捕捉し、6月24日の夜明けに攻撃する計画を立てた。これに対しヴァルイェフは、打撃を受ける前にツァレヴォ=ザイミシェに陣地を築き、防備を固めることに成功した[2]。彼らの部隊はポーランド軍に包囲されたものの、この時シュイスキー率いるロシア本軍3万5000が、わずか1日の距離を進軍していた。しかしロシア軍は自身が数で敵を圧倒していることを知らず、ポーランド軍の規模を過大評価していた[2]。またヴァルイェフ軍は、ポーランド軍と遭遇したという情報をシュイスキーに伝えることが出来なかった[2]。一方ジュウキェフスキは、配下のフサリアの力を頼みにして、攻勢に出た[2]。7月3日、彼はヴァルイェフ軍包囲を続けるため一部の軍勢を残し、自らは機動力のある騎兵部隊のみを率いてシュイスキーのロシア本軍との対決に向かった[2]。ジュウキェフスキの作戦は当たった。ヴァルイェフ軍は敵の大部分が包囲を離れたことに気づかず、またシュイスキーもポーランド軍の動きを掴めていなかったため、大規模な衝突が目前に迫っていることも予想していなかった[2]

両軍の兵力

スタニスワフ・ジュウキェフスキのもとでクルシノの戦いに参加したポーランド軍は6500人[1]から6800 人[2]で、うち5500人もしくは8割は、ポーランドのフサリア、いわゆる有翼重騎兵であった。対するドミトリー・シュイスキー、アンドレイ・ガリツィネ、ダニーロ・メゼツキー率いるロシア軍は約3万人、これに加えてヤコブ・デ・ラ・ガーディエ率いる傭兵約5000人がロシア側についていた。この傭兵隊には、フランドル、フランス、ドイツ、スペイン、イングランド、スコットランドとヨーロッパ各地の戦士が集っていた[1][2][3]。なお、陣営に残っていたり遅参したりして先頭に参加しなかったものを含めると、ポーランド軍は総勢1万2300人、ロシア軍は4万8000人であった[2]カノン砲の数を見ると、ポーランド軍の2門(文献によっては4門)に対し、ロシア軍は11門を有していた[2]

戦闘

クルシノの戦いの戦況推移

開戦時のポーランドの動きについては、相反する2つの説が提示されている。レシェク・ポトホロデツキによると、ポーランド軍は決戦が近いことを承知していた。しかし、闇夜の中で両軍の部隊が遭遇する事態が相次いだことを受けて、ジュウキェフスキは直ちに攻撃に移らず、部隊を再編成する時間をとることにした。これは同時に、ロシア軍にも準備の時間を与えることになる決断だった[2]。一方ミロスラフ・ナギェルスキは、ジュウキェフスキはロシア軍が寝静まっている時を逃さないために直ちに攻撃に移ることを選んだとしている[3]

ロシア軍は、右翼(北西)に外国傭兵隊が、中央・左翼(南東)にロシア本軍が陣取っていた[2]パイクマスケット銃アーキバスなどを装備した最前線の歩兵は村のフェンスを防柵とし、第二陣の騎兵部隊は歩兵の後やフェンスが少ない左翼に配置された[2]。大砲は後方の陣営に置かれたままで、クルシノの戦いでは使われなかった[2]

ポーランド軍は大部分が重騎兵フサリアで、そのほか400人ほどのコサック歩兵が左翼にいた[2]。戦闘の途中から、200人の歩兵と2門の大砲が到着して戦闘に参加している[2]

戦場は平坦な農地で、元から背の高い杭柵が横切っていた。ロシア軍はこれを対フサリア防壁として強化し、ポーランド軍が狭い柵の隙間からしか突撃できないようにした[2]

戦闘は夜明け前に始まった[2][3]。ポーランド軍のフサリアは繰り返しロシア軍の戦列に突撃し、突破しようと試みた[2][3]。その一人であったサムエル・マスキェヴィチは、その突撃は8回か10回にも及んだと後に述べている[2]。フサリアは騎兵銃なども用いて柵に隠れたロシア歩兵を破ろうとしたが、うまくいかなかった[2]

シュイスキーはフサリアの疲労に乗じて反撃に出ようと試み、ライター騎兵隊に出撃を命じた。しかしこのロシア騎兵がカラコール戦術を用いてピストルを撃ち終わったのを見計らって、フサリアは彼らを追って白兵戦に持ち込み、大打撃を与えた[2][3]。騎兵が潰走したことでロシア軍左翼は混乱に陥り、ついにポーランド軍に突き崩された。左翼はフサリアに蹂躙されながら、後方の陣営まで敗走せざるを得なかった[2][3]

次いでロシア軍中央も崩壊したが、右翼のロシア軍や傭兵部隊は数時間にわたって頑強に抵抗を続けた[2]。しかしポーランド軍は、後方から歩兵や大砲が到着してさらに勢いを増し、最終的にロシア傭兵隊を追いやった[2]。ただし、この傭兵隊は長いパイクで身を守りながら陣営へと撤退し、壊滅を免れた。傭兵部隊の陣営は、ロシア本軍のものとは別にあった[2]

ポーランド軍は、ロシア軍の2つの陣営と森に立て籠もった傭兵部隊を包囲した[2]。しかし、この陣営は要塞化されているうえに無傷の部隊が控えており、疲弊したポーランド軍がこれを攻略するのは難しかった[2]

ここでジュウキェフスキは敵に交渉を打診した。ロシア本軍に見捨てられていた傭兵部隊は交渉に応じ、最終的に降伏した[2][3]。彼らは今後ロシアに協力してポーランドと戦うことをしないことを条件に解放された[2]。またこの時、数百人の傭兵がポーランド側に寝返った[2]

クルシノの戦い

結果

シュイスキーが、配下の将軍たちの反対を押し切って、今後ポーランドに敵対する行動を取らないという意思を示したため、ポーランド軍はロシア本軍の撤退を認めた[2]。ポトホロデツキによれば、ポーランド側としても、戦闘の疲れや、兵がロシア軍営での戦利品獲得に熱中しているのもあって、あえてロシア軍の撤退を止めようとはしなかった[2]。一方でナギェルスキは、ポーランド軍が撤退するロシア軍を追撃してさらに数千人の損害を与えたと主張している[3]。ポーランド軍が得た戦利品は、金銀革製品などの奢侈品や11門の大砲を含む武装、ロシア軍の軍旗など多岐にわたった[2]

全体として、戦闘はおよそ5時間にわたり続いた[2]。ロシア軍の戦死者は5000人を数えたが、ポーランド軍は400人(うちフサリア100騎)ほどであった[2]。戦闘が終わるとジュウキェフスキはツァレヴォ=ザイミシェに戻り、ロシア軍部隊の包囲に復帰した。ヴァルイェフは援軍がクルシノで敗北したことを知ると、降伏を決断した[2]

その後

戦後まもなく、ロシアのヴァシーリー4世は七ボヤールに退位させられ、ジュウキェフスキらは大きな抵抗を受けることなくモスクワ入城を果たした[2]。七ボヤールは、ポーランドのジグムント3世の息子ヴワディスワフを新ツァーリとすると宣言した[2]

現代の歴史家たちは、クルシノの戦いについてポーランド軍の決定的勝利という評価を与えているが、同時代の文献が少なく、先頭の結果には不透明な部分が多い。一部の歴史家には、ポーランド王ジグムント3世自らが指揮していたスモレンスク包囲戦を重視し、ジュウキェフスキのクルシノでの勝利に重きを置かない者もいる[3]

ワルシャワの無名戦士の墓には、"KLUSZYN – MOSKWA 2 VII – 28 VIII 1610"という銘文が刻まれている。

脚注

  1. ^ a b c d Mirosław Nagielski (1995). “STANISŁAW ZÓŁKIEWSKI herbu Lubicz (1547–1620) hetman wielki”. Hetmani Rzeczypospolitej Obojga Narodów. Wydawn. Bellona. p. 135. ISBN 978-83-11-08275-5. https://books.google.com/books?id=t4niAAAAMAAJ 2012年6月16日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au KLUSZYN 4 July 1610 based on Leszek Podhorodecki, Sławne bitwy Polaków (Famous Battles of Poles), Wydawnictwo Mada, 1997, 83-86170-24-7. Last accessed on 9 April 2006
  3. ^ a b c d e f g h i j Mirosław Nagielski (1995). “STANISŁAW ZÓŁKIEWSKI herbu Lubicz (1547–1620) hetman wielki”. Hetmani Rzeczypospolitej Obojga Narodów. Wydawn. Bellona. p. 136. ISBN 978-83-11-08275-5. https://books.google.com/books?id=t4niAAAAMAAJ 2012年6月16日閲覧。 

参考文献

外部リンク


クルシノの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)

ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「クルシノの戦い」の解説

1610年1月31日ジグムント3世はシュイスキーに反発し偽ドミトリー2世側に立っていたボヤーレたちから王子ヴワディスワフツァーリにしたいという申し出受け取った2月24日ジグムントは彼らに了解返信を送るが、モスクワ入城するのは平和なときでなければならない条件付けたヘトマンのジュウキェフスキには、反乱を起こすか王の命令に従うかしかなかった。 彼はスモレンスク攻囲戦続けられる最低限軍勢だけを残してコサック援軍とともにモスクワへ向かった。しかし彼が恐れ予言したように、ポーランド・リトアニアの軍がロシアの地を略奪しながら東へ進むほど、ジグムント王に妥協意思がないことが明らかになればなるほど、ポーランド偽ドミトリー2世支援していた者たちは親ポーランド陣営去ってシュイスキーの反ポーランド陣営合流していった。 グリゴリ・ヴォルイェフの率いロシア軍スモレンスク救出のために西進し、ジュウキェフスキ率いポーランド軍モスクワへ進軍を防ぐためツァリョヴォ=ザイミチェの要塞築いた。ツァリョヴォは6月24日からポーランド軍により包囲されたが、この時ロシア軍長期戦準備をしておらず食料足りなかった。ヴォルイェフはシュイスキーの弟ドミトリー・シュイスキーに救援要請した。シュイスキーの軍はヤコブ・デ・ラ・ガーディエ率いスウェーデン傭兵部隊援軍得て救援向かったが、裏道通ろうとしてクルシノ経由回り道をした。 ジュウキェフスキはシュイスキーの援軍到来知り、彼らがツァリョヴォに着く前に迎え撃つため、ヴォルイェフらに知られないように夜のうちにツァリョヴォの包囲解いた1610年7月4日、クルシノの戦いで、ジュウキェフスキ率いポーランド軍精鋭騎兵5,000騎は数で勝る35,000人から40,000人のロシア・スウェーデン連合軍破り去ったロシア軍潰走し、ドミトリー・シュイスキーは今後ポーランド敵対しないという意思見せたためそれ以上追撃免れたスウェーデン傭兵部隊ポーランド軍包囲され結果今後ロシア側に味方しないという条件降伏し解放され傭兵一部ポーランド寝返ったロシア軍驚異的な大敗北は人々ショック与え戦争新たな展開見せる。 クルシノでの大敗の報が届くと、ヴァシーリー・シュイスキー味方する者はほとんどいなくなった。ジュウキェフスキは、ツァリョヴォに立て篭もる手ごわいロシア軍対し降伏して王子ヴワディスワフ忠誠を誓うよう説得した。こうしてヴォルイェフらもジュウキェフスキの軍に合流してモスクワへ向かったロシアボヤーレたちはジグムント3世勝利間違いないこと、もし正教会改宗すればヴワディスワフ次のツァーリになるであろうことを事実として受け入れつつあった。フョードル・ムスティスラフスキー率いる7人の有力ボヤール(七ボヤール、あるいは七人貴族会議)らがドゥーマ貴族たちによる議会)を掌握し7月19日、七ボヤール軍勢率いて宮殿迫り、シュイスキーをツァーリ地位から引きずり下ろした。 シュイスキーと家族捕らえられ、シュイスキーは修道院入れられ修道僧にされ、逃げられないように監視付けられた。後に彼は一種戦利品としてワルシャワ送られ1612年にゴスティンで没した連合進撃成功ばかりではなかった。ヘトマンヤン・カロル・ホトキェヴィチ (Jan Karol Chodkiewicz) 率いる2,000人の部隊攻撃は、給料支払いのない兵士反乱起こし、ホドキェヴィチにロシア中央部退却してスモレンスクに戻るよう強いたため失敗終わった王子ヴワディスワフ動きの遅い援軍とともに到着する戦争異なった様相帯びてきた。同じ頃、1610年傭兵集団リソフチツィは北西の町プスコフ陥落させ略奪しスウェーデン軍衝突していた(スウェーデン軍はクルシノの戦いの後、ロシア敵対してイングリア戦争突入していた)。

※この「クルシノの戦い」の解説は、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の解説の一部です。
「クルシノの戦い」を含む「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事については、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の概要を参照ください。

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